その結果「絵」だけではない「個性としての世界観」が築かれる。だから日本の漫画は作家性が際立ち多様な個性が育つ。
アメリカンコミックは、ストーリー、シナリオ、構図、キャラクターごとの作画、描き文字など、それぞれの役割を出版社から依頼されて分業制で作品が仕上がる。
その辺りの事情をよく知らないころに、アメリカ人のマンガ家と知り合って「私は○○という作品の19XX年からXX年の間、主人公の××を描いた◎◎です」などと自己紹介されてしばらく意味が分からなかった。
日本ではアシスタントに手伝ってもらうことはあっても完全に分業制という創り方には通常馴染みがない。「え? じゃああのヒーローはずっと同じ人が描いてる訳ではないのですか?」と驚いた。
アメリカンコミックは多くの人が関わるので、誰か一人の個性がはみ出ることはない。いつも安定した作品が出来上がる。読者がコミックに求めるものは分かり易い娯楽であり、創り手はそれに応えてきたのが一昔前までのアメリカンコミックだ。作画担当が交代しても同じキャラクターを描ける画力はすごいと思うが、どちらかと言えば画家としての力量が問われる分野だ。
それに比べると日本のマンガ家はシナリオライターであり、キャラクターデザイナーであり、画家でもある。持っている表現力の総動員で作品を創る。だからその作者ひとりにしか生み出せない作品が生まれるのだ。
「描きたい」と思えば、売れ行きを気にせず難解なテーマに挑んだり、実験的な表現にチャレンジする作者も出てくる。結果として日本のマンガの多様性が花開いた。アメリカンコミックのように役割分担で創ると、とんがった「個」は出る幕がなくなる。
アメリカだけではなく、ヨーロッパでもアジアでも「マンガとは子供向きの分かり易いモノ、教育的に正しいとされる健全な世界」が常識だった。
日本のマンガは「個」の思いがあふれ過ぎて、欧米からみれば非常識な世界が広がっていた。大人も子供も善も悪も心の闇も全てがマンガのテーマになった。
我が国のマンガ作品が多様な表現力と多彩なテーマで個性的な世界を創り出しているのはこの「個としての作家性」が生かされているからだ。その結果数多くの名作が生まれているのであって、作品数の分母が大きいから、良い作品も多くて結果的に世界で受けている──という順ではない。
自分にしか描けない世界を創り出す喜び──個性を生かせる日本スタイルのマンガの創り方が日本のマンガの力なのだ。
