特集の緒言で、武田徹編集委員はこう書いている。
同名の特集は、2021年刊行の95号でも組まれている。だが、その時とは明らかに切迫感が違う。文化部記者として論壇を長く担当し、昨年からは論壇誌の編集に携わっている私にとっても、これ以上ないほど切実な内容であり、学ぶところ甚だ多かった。
武田氏の論文「SNS時代のジャーナリズム」は、従来型の「オールドメディア」の発信が信用されなくなりつつある現状を打開するため、鶴見俊輔の提起した「マチガイ主義」(可謬主義)という概念を手掛かりに論を展開する。
つまり、マスコミは嘘ばかり、と決めつけるネットの逆張り言論に対して、「マスコミは間違うこともあるが、間違いを正そうとするものでもある」との姿勢を打ち出すことで、逆説的に信頼性の回復を図るものだ。
たしかに、これまでのように無謬主義的な態度でいたずらに報道の正確性を強調するばかりでは、1つの誤報で信頼が崩れてしまう。
誤報をゼロにすることは原理的に不可能である以上、第一報の後も取材や調査を続け、新事実が発見された際には過去の報道の間違いを訂正することが重要とする主張は、まったくその通りだろう。
ただ、たとえば新聞が「弊紙に書いてあることは間違っているかもしれませんので、その可能性に留意してお読みください」などと正面切って言うのは、実際問題としてなかなか難しい。
そうした可謬主義のジャーナリズムを受容してもらうには、受け手である読者側との信頼関係が築かれていることが必要になるだろう。失われた信頼を回復するためには、信頼の存在が前提となる――。
ここにアポリアが潜んでいる。そして可謬主義を受け入れる高リテラシーの読者共同体が成立したとして、それはマスの単位で可能なのだろうか。
マスメディアとジャーナリズムはしばしば混同されるが、駆動原理の点で異なる、と武田氏は指摘する。マスメディアはより多くの人に情報を伝えることを目指すのに対し、ジャーナリズムは真相の追求を通じての公益実現を目的とするからだ。
これまではマスメディアがジャーナリズムを担ってきたために同一視されていた両者の関係だが、今後はどうだろうか。