廣瀬 はい、あります。
森 2022年2月にロシアによるウクライナ侵攻が始まり、アメリカがロシアを抑止できたのかという議論があります。
2021年12月にバイデン大統領が「ウクライナへの派兵はない」と早々に発言したことで、「レッドラインはない」と事実上認めた形になり、批判を受けました。わざわざ明言する必要はなかったのではないか、と。
ただし、これはアメリカを含むNATOの問題だと思っています。アメリカがNATOの同意を得ずにロシアと武力衝突するリスクを負ってウクライナに武力介入するのは全く現実的ではありません。NATO諸国が一致してアメリカを支援するか、共に介入する意図がなければ、信頼性のある抑止力は発揮できないからです。
本来、抑止力を効果的に機能させるには、有事の際にどの国がどのような役割を果たすのかを具体的に定め、侵略国に対して報復する意思と能力を確実に示しておく必要があります。ウクライナについて、アメリカを含むNATO諸国は、こうした抑止の体制を十分に整えていなかったと言えるでしょう。
北岡 ただ、今回、NATO全体でどうするかという議論を行う余地があったのだろうかという気はするのですが......。
森 北岡先生がご指摘の通り、侵攻前の段階で、NATO全体で議論を行う余地はなかったと思います。それはアメリカを含むNATOが「抑止できたのにしなかった」のではなく、ロシアとの武力衝突を覚悟の上での軍事的対応という選択肢をそもそも想定していなかった。つまり、抑止の前提条件すら整っていなかったのです。
2014年から2022年までの間、NATO諸国はロシアへの警戒を強めていましたが、NATOがウクライナに介入してロシアを抑止することは政治的には成立し得ませんでした。
もし成立していれば、ウクライナはすでにNATOに加盟していたはずです。つまり、「ロシアとの戦争を覚悟してまで、守るべき死活的な利益はウクライナにはない」という暗黙の判断や前提がNATO諸国にはあったと考えられます。
ウクライナを守るためにロシアとの戦争に踏み切るリスクを冒すべきではないという冷徹な判断は、アメリカにもあったと思います。ロシアにとってのウクライナの戦略的重要性はアメリカにとってのそれよりも大きいと判断し、エスカレーションのリスクを回避した。
対抗措置によってエスカレーションのスパイラルに陥った場合、最終的に妥協を強いられるのはアメリカであり、その過程で大きな犠牲と制御不能なリスクが生じることを避けたのです。この判断はオバマ政権時代から見られ、バイデン政権も同じ立場を取ったと考えられます。
大統領が「アメリカが戦争を覚悟して守るべき死活的利益」をどう定義するかは、世界の安全保障に直結します。
ウクライナ戦争が突き付けた最も難しい問題は、アメリカと同盟を結んでいない中小国が核保有国から侵略された場合、侵略国の支配・制圧の「コミットメント」が、被侵略国を支援する諸国の侵略阻止の「コミットメント」を上回る状況において、被侵略国を支援する国々はどのように対応すべきかという問題です。