彼がここで念頭に置いているのは、あえて謎めいた物言いに終始する禅の公案であり、とりわけその注釈を基本スタイルとする道元の『正法眼蔵』であると思われる。
ミミズを半分にちぎったらどっちに仏性があるか、片手で拍手したらどんな音がするか。そんなことを延々と怒鳴り合ったり殴り合ったりしている禅僧たちのやりとりを読む際に注目すべきなのは、それが「何を」(what)語っているかではなく、偉大な祖師たちが「いかに」(how)その難問に取り組んだかのほうだ。 「その鍵は<何が>表現されているかではなく、その表現が<いかに>生じているかにある。」
ここまでお付き合いくださっている奇矯な方も、そろそろ眉をしかめはじめているに違いない。
これは要するに、近代以降、欧米や東アジアに対して自文化の特殊性を──ひいては卓越性を主張したい日本人が、また自文化の行き詰まりに際して日本にそのオルタナティヴを求めた外国人が、延々とつむぎ続けてきた日本への幻想の再生産ではないのか?
ここで摘出されている諸々の特性は、対象である日本思想自体に内在しているのではなく、むしろそれを論じる論者の願望のほうに属しているのではないか?
カスーリスは存外素直に、この「参与的な知」が彼自身が生いたった「分離的な知」の陰画(ネガ)として日本に見出されたものであること、そしてこのオルタナティヴを反照板として、自らの知的伝統とあらためて出会い直したことを、本書の随所で認めている。
ただ興味深いのはそれが、プラトンやアリストテレスのころには西洋のほうも、師弟関係、心身(とくに身体)の訓育、型の反復などを重んじる参与的な知であったという捉え直し方であることだ。
ヘーゲルの弁証法(ディアレクテーク)とはちがって、(特に初・中期の)プラトンの対話(ディアロゴス)のなかでは、観念同士がぶつかっているのではなく、「血肉を備えた」(flesh-and-blood)人々が論争していたはずだ。そう彼は回顧している。
そして日本思想大系のようないいとこ取りのアンソロジーを跋渉するにとどまらず、群書類従や日本儒林叢書、さらには各地の文庫の古写本まではぐってみたことのある人はみな、カスーリスの分析をたんなる虚像のおしつけとは見ず、多かれ少なかれ同意を与えるのではないかと思われる。
一定以上の結構を備えて思想書・哲学書とよびうるテクストは日本思想のごく一部にすぎず、そのほとんどは何がしかの道に「参与する」ための技術書や伝書の類だからだ。
そしてその氷山の一角の思想書・哲学書もまた、結局は「参与」へと誘(いざな)うものなのは、カスーリスの分析のとおり。本書はむしろ、日本国内でこそ読まれるべき本である。