たぶん昨今の「人文学の危機」とは少し位相が異なり、そしてずっと根深いものである。
以上、職業研究者としてというより1人の日本人としての所感を長々と述べきたったのは、最近の国内外の日本思想研究に大きなインパクトを与えている浩瀚(こうかん)な書物が、まさにこのことを主題としているためである。
この道の碩学、トマス・カスーリスのEngaging Japanese Philosophy: A Short Historyである。『日本哲学に参与する』と訳すべきだろうが、表紙には原題のそばに闊達な草書で『日本哲学小史』と邦題が添えられている。
カスーリスによれば、関係項同士を──知るものと知られるもの、あるいは心と身体などを──まず分離し、その上で両者の外的な関係を考えるスタイルが西洋では近代以降主流化したのに対し、日本では両項の本質にまでくいいって切り離しえない内的な関係を認め、したがって「分離する」(detach)ことより「参与する」(engage)ことを正当な知のスタイルとし続けてきた。
本書の美質のひとつは、その議論やテクスト分析の質の高さとは一見つりあわない、卓抜で親しみやすい例示にある。まさにその端的な例が、この分離的な知り方(detached knowing)と参与的な知り方(engaged knowing)の違いについての直感的な説明である。
地質学者と陶芸家のどちらが土についてよりよく知っていると思うか、とカスーリスは問いかける。
言葉についてはどうだろう。言語学者か、それとも詩人か。光については物理学者か、写真家か。息については呼吸器学者か、瞑想者か(瞑想が本質的に呼吸の技法なのは説明不要だろう)。家族については社会学者か、それともカウンセラーか。
いうまでもなく、分離的な知り方をする人はこのうちの前者の系列を好み、参与的な知り方の人は後者を好む。
松尾芭蕉の有名な揚言「松のことは松に習へ」(『三冊子』)も想起されるが、たしかに19世紀に西洋の科学技術が視圏に入った後、日本の技芸が技術水準自体はそれなりに高いのに、長年の熟練による「勘」めいた経験知に依拠しすぎ、原理的な反省に乏しいこと──つまり日本人が参与的な知り方ばかりを長いあいだ偏愛し続けてきたことも、延々指摘されてきたところである。
そうなると、カスーリスにしたがえば、日本の思想テクストは伝達すべき情報が「個包装」された料理のレシピや家電の説明書よりも、読み手も書き手が垣間見た真理の光景へと「参与する」よう促す招待状のほうに、より近いということになる。