アステイオン

思想

「悪」との付き合い方──本居宣長とチャールズ・テイラー

2022年10月31日(月)08時14分
島田英明(東京都立大学法学部准教授)

2 道徳的なるものの「セラピー」化

チャールズ・テイラーは1931年生まれ。マギルやオックスフォードで学び、アイザイア・バーリンの薫陶を受け、若いころはニューレフト運動の一角を担っていたともいう。長らくマギル大学の教壇に立ち、旺盛な執筆活動と度重なる論争で名をはせた。『世俗の時代(A Secular Age)』は、そんなかれが齢七十を過ぎて世に問うた大冊であり、昨年出た訳書は二段組みでじつに900頁を超える。よほどの物好きか、本書を読むゼミに巻きこまれてしまった気の毒な学生以外、通読したひとは少ないだろう。

そんな大著も終盤にさしかかったころ、息切れを禁じ得ない読者の前に、次の一節が飛びこんでくる。まずは先入見なく読んでほしい。


しかし、どんなに理解可能なものであるとはいえ、この姿勢のゆえに、この種の人間主義はしばしば逸脱者には否定的であり、時として残酷なものとなった。こうした逸脱者は、はみ出し者として、あるいは悪意によって突き動かされた人たちとして分類された。その現代的な事例は、「政治的適正」(political correctness)によって生み出されたいくつかの施策に見出すことができる。それはしばしば、さまざまな「コード」からの逸脱者に対して強圧的な再教育または厳しい処罰あるいはその両方を強いる。そしてそうした人たちは、しばしば最小の違反行為のゆえに「人種差別」や「女性嫌悪」の汚名を着せられるのである。(751頁)

昨今のリベラル批判にも一脈通じる論調だが、あまり粗雑なものと同じにされてはかれも不本意だろう。要を摘まめば、主張は次のようになる。

まず、テイラーは、普遍的な幸福と権利の実現を目指す「世俗的人間主義」が現代の道徳秩序に一定の偏向を与えていると述べ、それを道徳的なるものの「セラピー」化だと表現する。

そこでは第一に、原罪に代表される人間存在の両義性の感覚が消え、人間は「自然な存在者」として善であると想定される。だからこそ、第二に、悪とはだれでも到達可能なはずの正常から逸れた「病理」であって、まちがっているにせよその人なりの生を構成している一部だとは認められず、一方的な「摘発」「除去」の対象になりさがる。

しかも第三に、この場合、正常な者たちは自身を病から免れていると考えるから、もはや「愚かで遅れた自業自得の野蛮人」に対して共感や慈悲をもちえず、再教育にあたって際限なく残酷になれる。被害を受けた者に手をさしのべたいという「燃えるような欲求」から、愚か者に向けられる「烈火のごとき憎悪」へ。こうして人間愛に基づく改良プログラムのなかに、人間嫌いと攻撃性とが回帰する。

しかも、と議論はつづく。自らの誤った考えを、単に否定されるにとどまらず徹底的に蔑如された悪人たちは、かえって「反動的防御」に乗り出し、「分極化」に拍車をかける。

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