アステイオン

思想

「悪」との付き合い方──本居宣長とチャールズ・テイラー

2022年10月31日(月)08時14分
島田英明(東京都立大学法学部准教授)

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世の中をより善くしようとする試みが、「悪」をうまく扱えていないのはなぜか。『アステイオン』96号より「夜闇へのまなざし──本居宣長とチャールズ・テイラー」を全文転載する。


1 本居宣長の憂鬱

思想史を学んでいてときに興味を惹かれるのは、詭激な前提に立つ者がしばしばそこから穏当な帰結を引き出し、反対に、公平な前提に立つはずの者がかえって狭隘な結果を導いてしまうさまである。江戸の国学者、本居宣長などは好例だろう。日本神話をすべて真実だといいはるこの男は、終生、次のような信念の持ち主だった。


惣体の人を、きびしくをしへたてて、悉(コトゴトク)にすぐれたる善人ばかりになさんとするは、かの唐戎風(タウジユウフウ)の強事にして、これ譬へば、一年の間を、いつも三四月ごとのごとく、和暖(クワダン)にのみあらせんとするがごとし。寒暑は人も何もいたむものなれども、冬夏の時候もあるによりてこそ、万の物は生育することなれ。世中もそのごとくにて、吉事あれば、かならず凶事もあり、また悪事のあるによりて、善事は生ずる物なり。又昼もあれば夜もあり、富る人あれば、貧しき人もなくてはかなはぬ道理なり。(『玉くしげ』)

あたたかな春の陽射しがあれば冬の夜闇もあるように、世の中には吉事もあれば凶事もあり、善もあれば悪もある。一方がいくら好ましいとはいえ、他方の存在を無益と決めつけ、抹消できないのが世の道理だ。

ところが、「唐戎風の強事」ことかれの嫌いな儒学は、人間的善の十全な達成を目指して人をきびしく教えさとし、「善悪たがいに相根ざす」(くず花)この両義的な世界を承認しない。「ほどほど」であればだれもが現になしている善行を不十分だと咎めたて、高みを目指して跳躍することを強い、かえって人を傷つけてしまう(直毘霊)。

そのような試みは、1年をずっと春にしようと目論む暴挙にひとしいと、宣長はいう。しょせん不可能であり、むしろ悪い結果をもたらすにすぎず、なにより傲慢なのだと。論敵に対する悪意とやわらかさとが同居した〝夜を認めない精神〟への嘲弄は、かれの思考の基調をなす特徴だといってよい。

こうした主張の背景には、相応に入り組んだ神話解釈がひかえているのだが、ここで立ち入るのはやめておこう。それよりも、あらためて注意を促したいのは、この世の悪や愚かさとどう向きあうべきかという、本居宣長が繊細な理解を示してみせる問題のかたちである。

「隅から隅まで掃清めたるごとくに世中を善事ばかりになさんとする教」(玉くしげ)は、その熱意と誠実さとにかかわらず、あるいはそれゆえにこそ、なにか重大な欠乏を含んでいるのではないか──。これこそ、知的文脈はちがえど、あるカナダの哲学者が新著のなかでこだわった論点のひとつにほかならない。

紹介したい本のなまえを、『世俗の時代』という。


 『世俗の時代』 
 チャールズ・テイラー・著
 (石川涼子・梅川佳子・高田宏史・坪光生雄、千葉眞監訳)
 名古屋大学出版会

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