アステイオン

ウクライナ

非英雄的な平和と英雄的な抵抗

2022年06月30日(木)07時57分
田所昌幸(国際大学特任教授、慶應義塾大学名誉教授)

冷戦期の東欧は、いわゆるブレジネフ・ドクトリンによって東欧諸国の主権は制限され、ソ連による介入の可能性を常に意識せざるを得なかった。実際ソ連は1956年にはハンガリーに1968年にはチェコに侵攻し、現地の指導者を排除して親ソ政権を据え付けるという乱暴な介入を効果的に実行した。

1980年代初頭のポーランドでは、自主労組の「連帯」による運動が盛り上がるなかで首相となったヤルゼルスキ将軍は、自由化を求める国内勢力と介入する構えのソ連の圧力の間で苦闘することになった。

ソ連の指導部に呼びつけられた時には、ピストル一丁と神経ガス・ボンベ1個を持つ副官を伴って、識別標章をすべて抹消したソ連機で場所も知らされないまま薄暗い夜の空港に到着した。

ただちにKGBの要員に伴われて自動車に乗った時、「これは片道の旅になるかもしれない」と覚悟した。ソ連側との「会談」は6時間続き、このポーランドの首相は午前3時にようやく生きてワルシャワに帰ることを許された。

結局ヤルゼルスキは戒厳令を敷き、自主労組を弾圧した。戒厳令や自由化運動の弾圧は西側の政府からは批判されたが、だからといってアメリカやNATOがソ連の軍事侵攻からポーランド防衛に加わってくれるわけでもなかった。

ソ連の軍事侵攻と自由を失うのとどちらがマシかという問いに、安全地帯にいる人間に答えることができるのだろうか?

ソ連の侵攻を回避するために苦渋の選択をしたヤルゼルスキは、貴族の出自を持つ軍人で、カソリック教徒でもあった。彼の忠誠がモスクワのソ連共産党ではなく祖国ポーランドにあったことは間違いない。だからこそ教会や反体制派とも微妙な関係を苦心しながら保ち、なんとかポーランドの非英雄的な平和を維持した。

しかしポーランド人が独立のために何回となく大きな犠牲を払って立ち上がったことを、忘れてはなるまい。抵抗の悲劇を共有していたからこそ、ポーランド人は苦渋の選択をしてもまとまりを維持できたのではないか。

まさかと思われたソ連自身の自由化がゴルバチョフの下で始まると、ポーランドが流血を経ることなく体制移行を進めることができたのも、英雄的な抵抗と非英雄的な平和という悲劇をともに耐えた経験と無関係ではないだろう。

ウクライナもそうした非英雄的な平和を選ばざるを得ないのではないかというのが、戦争前の私の予感だった。

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