アステイオン

欧州

NATOを覚醒させたウクライナ侵攻

2022年06月10日(金)08時07分
広瀬佳一(防衛大学校総合安全保障研究科教授)
プーチン大統領

2022年2月24日、ロシア国営テレビで「特別軍事作戦」の開始を発表 Reuters TV


<ロシアによるウクライナ侵攻は、世界の安全保障問題を完全にひっくり返してしまった。そもそもプーチンの主張する「NATO東方拡大が根源的な脅威」とはどういうことか? 論壇誌『アステイオン』96号より転載>


ロシアによるウクライナへの侵攻は、世界に衝撃を与えている。軍事施設への攻撃から一気に無差別攻撃へと拡大し、一般市民に甚大な被害をもたらし、4月上旬時点で400万人以上[編集部注:6月現在、600万人/UNHCR発表]の難民を出していることで、ロシアは国際社会から非難を浴びている。

このプーチンによる「特別な軍事作戦」の戦争目的とは、いったいどのようなものなのか。プーチンが2月24日の〝宣戦布告〟演説で最初にとりあげたのは、NATOの東方拡大が「根源的な脅威」になっているとの認識である。

冷戦が終結しソ連が崩壊したとき、米国はNATOを東に拡大させないと約束したのに、ロシアは騙された。それのみならずNATOはウクライナに拡大しようとして、ロシア系住民を抑圧しているウクライナの現政権の「極右民族主義者」や「ネオナチ」を支援している。そこでそうしたロシア系住民を保護し、「非軍事化」と「非ナチ化」を目指して「特別な軍事作戦」を開始する、というものだ。これは言い換えると、ウクライナを武装解除したうえで、中立を宣言させるということになる。

このようにプーチンの認識には、NATOに対する底知れない憎悪がある。しかしこれは、NATOが冷戦後にいかに機能の変容を遂げ、ロシアとのパートナー関係構築に腐心してきたかを考えると、あまりに被害妄想的でかつ後知恵的な印象を覚える。

そもそも米国はロシアを騙したのか。最新の研究によると、1990年のドイツ統一とNATOへの残留交渉のなかで、米ベーカー国務長官や西独のゲンシャー外相、コール首相らが、ゴルバチョフとの会談の際、NATOの「管轄範囲」は東独に拡大しないとか、東への拡大は課題とはなっていないということを発言した事実はあるが、それを取りかわした文書、議事録は存在しないことがわかっている。

実際にロシアはNATOのはじめての1999年東方拡大の際に、不拡大の約束を根拠に反対したということもなかった。この背景にはNATO側の対ロ配慮もある。

1997年にNATOはロシアと基本議定書を締結したのだが、そこでは双方を敵とはみなさないことを再確認し、1999年以降の新規加盟国にはNATO加盟国の部隊を常駐させず、核兵器も配備しないことを約束したうえで、NATOロシア評議会を設置して外交チャンネルを開いている。

また、2002年にNATOが中・東欧7カ国の加盟を決めた当時は、前年の「9.11」同時多発テロを契機とした国際的な対テロ協調の気運があったうえ、プーチン政権の基盤がまだ固まっていなかったこともあって、米ロ関係は比較的良好であった。そのためウクライナ同様に旧ソ連に属していたバルト三国のNATO加盟にさえ、今回のような激しい反発はみられなかった。

冷戦後のNATOとロシアの関係はこのように、決してロシアを無視したNATOによる一方的な膨張主義ではなかった。それどころかNATOは2010年の戦略概念において、ヨーロッパに深刻な脅威は存在しないとの認識のもと、ロシアが戦略的パートナーであることを強調していたのである。

さらに、拡大したNATOは、決して一枚岩ではなかった。バルカン半島の民族紛争への介入と、アフガニスタンへの関与により国際的な危機管理を主任務の1つとするようになったNATOは、2010年の戦略概念で、従来の集団防衛に加え、この危機管理と協調的安全保障の3つを主任務とする同盟と自らを再定義した。

しかしこれは妥協の産物でもあった。たとえばバルト三国やポーランドはロシア脅威の観点から集団防衛重視を訴えていたのに対して、米英は危機管理へのNATOの関与拡大を求めていたし、ドイツは非軍事的な協調的安全保障を強調する一方で、フランスはEUの安全保障機能の強化を標榜していた。

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