アステイオン

アメリカ

新しい「アメリカの世紀」? Vol. 093 座談会

2021年02月03日(水)
小濵祥子+田所昌幸+待鳥聡史 構成:藤山一樹(日本学術振興会特別研究員PD)

田所 それを歴史認識問題と見るならば、少なくともアメリカ以外の国では新しい現象とはいえませんね。たとえばイギリスでは帝国の過去をいかに捉えるかという問題が、左派の政治家やジャーナリストからたびたび提起されてきました。たとえば、1980年代にグレーター・ロンドン・カウンシル議長を務めた労働党のケン・リヴィングストンが、植民地統治に携わった人物の像を撤去すべしと言い出したこともありましたね。

いずれにせよ、イギリス人の場合は清教徒革命をはじめ、過去に対する評価ががらりと変わる節目を何度か経ていることで、歴史認識問題との付き合い方をいくらかでも身に付けているように思います。一方のアメリカでは、建国をめぐる物語に手の付けられることがほとんどなかったために、パンドラの箱を開けてしまったのではないか、という深刻な不安が生まれているのかもしれません。

待鳥 学問の世界でオーソドックスな政治史や外交史が押され気味なのは各国共通でしょうが、アメリカの場合はそうした傾向がナショナル・ヒストリーの解体と結びつきやすいのが特徴だと思います。個人や社会に重きを置いて歴史を語ると、アメリカ史の輪郭そのものが急速に失われていく。

それは結局アメリカという国家が、もちろん多分にフィクションであるとはいえ、はっきりした契約によって始まったとされているからで、その合意に何らかの異議を挟むと、アメリカという概念自体が一気に解体してしまうのです。

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崩れゆく物語と保守派の不安

田所 アメリカの巨大な規模を考えると、そもそも一つの国家として成り立っているのが奇跡のように思えます。目下BLMに代表される人種差別抗議運動の高まりが注目されていますが、アメリカという国は建国期から今日まで、広大かつ多様なものを一つにまとめるという要請にずっと直面してきました。

すでに17世紀の北米には、平井康大さんの論考「島宇宙のアメリカ」で紹介されているように、千年王国主義の世界観に基づく禁欲的で世俗とは一線を画した宗教共同体が複数生まれています。我々のことはほっといてくれという集団を常に抱えながら、それでも共存のための空間を何とか作り上げてきたのが、アメリカ史のダイナミズムですね。

待鳥 「多数から成る一つ(E pluribus unum)」は国章に記されている標語ですが、アメリカ史の中で国民の統合にまつわる危機は決して珍しくありません。たとえば南北戦争の時代には今よりずっと深い分断を経験しているわけです。1960年代の公民権運動にも、分断の要素はありました。また、トランプの支持者が多いラストベルトの衰退も今に始まった話でなく、1980年代のアメリカで自動車やラジカセといった日本製品がハンマーで壊されたのは、アメリカ国内の製造業がそれだけ追い込まれていた証しです。

ただそれでも、アメリカの中で一つになろうという動きが今ほど弱い時期がこれまであっただろうか、とは思います。だからこそ「アメリカ第一」を口にする人々が増えているのではないでしょうか。内側で一になりにくいから、外に向けてアメリカが一であると言いたい。あるいは、現実が一になっていないから、理想としては一なのだと言いたい、というわけです。少なくとも保守の側には、独立もしくは憲法制定の段階でなされた、多様性の中の統一という約束がすっかり壊れてしまうことへの警戒が間違いなくありますね。

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