待鳥 石川敬史さんの論考「特殊にして普遍的な幻想の超大国」のタイトルにあるように、アメリカは自分たちのやっていることを普遍的であると言うのが面白いところです。そして、これまでアメリカが主張する普遍性は世界におおむね受け入れられてきました。ところが普遍化がある程度済むと、今度はアメリカの中で自分たちの普遍性を問い直す動きが起こり、差異化の論理が生まれてきたのです。
最近のリベラルの中には、差異化それ自体を普遍化するというメタの傾向が見られますが、こうした普遍としての差異化が21世紀のアメリカの論理になるかというと、それは難しいのではないかという感覚を、私だけでなく執筆者の多くが持っているように思いましたね。
田所 その差異化の論理というのは、多文化主義とは異なるものですか。
待鳥 二つの意味するところは極端には違わないでしょう。アメリカの中ではすでに1980年代末あたりから、多様性を打ち出しすぎると共同体を支える統合の原理まで壊されるという懸念が、それまで多様性を称揚していた知識人によって示されるようになりました。ところが現在は、アメリカの中で収まっていた多文化主義が外に向かって普遍的に語られることで別の表れになっている、という気がしています。
田所 小濵さんの指摘された、アメリカのパワーの揺らぎという点はいかがですか。アメリカ衰退論は私の記憶している限りでも、ヴェトナム戦争期やカーター政権の末期など事あるごとに聞いてきましたし、その後には決まってアメリカの復活が語られてもいます。現在のアメリカをめぐる状況は、これまでの歴史の中でどれほど特異であるといえるのでしょうか。
小濵 アメリカの衰退はくり返し論じられてきましたが、国民の統合という観点に立つと、これまでとは少し違う事態が起きていると感じます。
たとえば学問の世界、特にアメリカの歴史学では、国家よりも個人や社会、アメリカ一国よりも環太平洋やグローバルといった視点で分析する研究が主流となり、アメリカ一国の政治史や外交史は時代遅れなアプローチとみなされがちです。当然アメリカの大学で政治史や外交史を教える教員も減っており、私がアメリカへ留学した際に外交史から国際政治学に専門を変えたのもそうした背景がありました。
清水さゆりさんの論考「『アメリカの世紀』と人種問題の蹉跌」では南軍記念碑をめぐる軋轢が紹介されていますが、アメリカ史の遺産の一部を丸ごと消そうとする動きや、国家としてのアメリカを語ること自体が批判の対象となる傾向は、今まであまり見られなかった現象ではないでしょうか。
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