危機に立つ「地方の放送インフラ」

たしかに、設備を共同で使えば、しばらくの間は放送を続けられるかもしれない。NHKだけ、民放だけ、で、それぞれ持つよりは、まだマシなのかもしれない。

しかし、もとより中継局は、電波が届くように高台の同じ場所に作られている場合が多く、どこまで負担軽減につながるのか定かではない。しかも、今回のように非常用電源のバッテリーがなくなってしまえば、たとえ共同利用していたとしても効果は薄い。

地震と津波で街を壊された石川県の沿岸地域で、MROのラジオだけではなく、地上波テレビの中継局を、どこまで、いつまで維持するのか。たとえ続けると決断したとしても、これまでと同じような規模を保つのは無理だろう。

ただでさえ広告収入が減少し、経営面での体力が弱っているところに、顧客=視聴者=人口が減る。地方のテレビ局を保つ意義と余力は、どこにあるのか。いざ、という災害時に停波してしまった以上、なおさら、その懸念は高まる。

地方を見捨てる」という悪魔の選択

テレビ局にとどまらない。

若い世代が減り、高齢化が進む。長期的に見ても、人口が増える兆しは乏しい。そうした地方のひとつである石川県能登地域を襲った災害からの復興は、どうあるべきなのか。

たとえば、東日本大震災からの復興と同じぐらいの規模で、取り組むべきなのか。復興庁を設置したり、巨大な災害防潮堤を作ったり、といった、大がかりな対応が求められるのだろうか。

そう考える人もいるだろうし、何より、現地の人たちにとっては、そんな悠長な話よりも、いまの水や食料、住む場所、といった喫緊の支援が求められる。

他方で、「地方を見捨てる」という悪魔の選択が出る可能性があるのではないか。

人口規模、将来の発展の見込み、といった、いわばリターンのようなものを勘案する、つまりはコストパフォーマンスを考えて、小さな再建にとどめる方向性が議論されるのではないか。

「誰一人取り残さない」と言うのはたやすい

地方を見捨てる、とは穏やかではないし、ここで声高に主張したいわけでもない。

「誰一人取り残さない No one will be left behind」とは、2015年に、193の国連加盟国全てが掲げたSDGsの理念である。この理念は完璧であり美しい。地球上で誰一人取り残さない、それを目指しているのだから、いわんや日本国内においてをや、と言わずにはいられない。

だからこそ、誰にでもそう言えるのであり、言うだけなら簡単なのである。

地方を見捨てる選択も同じである。

言葉だけなら、いま、こうして私が書いているように、いくらでも、誰でも並べられる。復興のコスパが悪いから諦めよう、諦めさせよう、などとは、口が裂けても言えないのかもしれないが、そうであるがゆえに、誰にでも、いつでも言えるのである。

地方を見捨てる選択も、誰一人取り残さない選択も、どちらも、それぐらいたやすい。

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「なんとなく」見捨てられる