つまり、常套句を廃して書く。「面白い」を面白いと書くのではなく、なにを面白く感じたのか、エピソードで熱意を語る。考え抜く。相手に響く文章とはそういうものだ。

世界は変わらないが、書けば自分の救いとなり得る

では、なぜ私たちは文章を書こうとするのだろう。著者は、後半に進むほど、その問いを深めていく。ここではその解をひとつだけ紹介する。


 文章を書くとは、表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ。(277ページ)

徒然草に「雪のおもしろう降りたりし朝(あした)」という一節がある。目の前が開け、周囲が明るくなることを古来、日本人は「おもしろい」と表現してきたという。

それを踏まえて著者はいう。「鎌倉時代の粗末な庵では、早朝の寒気など、震え上がるだけのものだったに違いない。雪の朝なんてだれも「おもしろい」と思っていやしない。吉田兼好が〈発見〉した、おもしろさなのだ」。

おもしろさを見つけられる人は強い。それは、世界がおもしろくないからだ。


 だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、〈表現〉が、この世に絶えたことは、人類創世以来、一度もない。(280ページ)

『三行で撃つ』を読めば、「書くこと」が、自分の救いとなり得ることが分かる。世界は変わらない。よくも悪くもなりはしない。それでも、人間の真実を見つめることはできる。

読み終える頃には、きっと、何か書いてみたくなっているはずだ。


三行で撃つ――〈善く、生きる〉ための文章塾
 近藤康太郎 著
 CCCメディアハウス

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著者の近藤康太郎氏は30年以上にわたり、新聞、雑誌、書籍と、さまざまなメディアに休むことなく文章を書き続けてきた。現在は、百姓や猟師の顔も持ち、朝日新聞紙上で「アロハで猟師してみました」「多事奏論」といった看板コラムを担当する。さらには、社内外の若手の記者やライターに、ただで文章を教える場(私塾)も提供している。
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