戸山はなぜ「いわくつきの土地」になったのか

尾張藩の戸山屋敷は寛文9年(1669年)から造営が始まり、増築を重ねて13万6千坪もの巨大な屋敷となった。その根幹となる土地は、春日局の補佐役を務めた祖心尼が将軍・徳川家光から与えられた場所であったという。

祖心尼が拝領した土地は、彼女の孫娘と徳川家光との間に生まれた千代姫が尾張藩二代藩主・徳川光友に輿入れしたことで尾張藩に引き継がれた。

江戸時代以前、このあたりは「牛込」氏の領地だったが、徳川氏の江戸入国後に没収・再配分され、所有者が変遷していった。

下屋敷ができる前は「和田村」「戸山村」と2つの村があり、さらに中世には鎌倉幕府の武将・和田義盛の領地であったと伝えられているようだ。

庭園内に組み込まれた神社もかつて「和田戸明神」と呼ばれていたそうだが、つまり尾張藩の戸山屋敷が建つ以前、この土地は和田義盛の領地だったと伝えられているのである。

彼は源頼朝の挙兵時から仕える御家人で、鎌倉幕府の初代「侍所別当」を務めた重臣だった。

和田義盛は最期には鎌倉幕府と激しく戦って滅ぼされた人物でもあることから、東京の戸山にあった古い鎮守社も、その霊を鎮めるために建てられたものではないかと著者は推測している。

つまり悪霊退散のために貼るお札のようなもので、外したり壊したりしてはいけないものだったのではないか、というわけだ。

 いずれにしても、戸山の屋敷のメインの土地は、中世以前は(断絶した)和田氏、近世以前には(失脚した)牛込氏等の物であった。

 尾張徳川家がそれだけ広大な土地を入手することができたのも、そこがいわゆる事故物件だったからではないか。

 長い歴史からすれば、日本中どこもしも事故物件であろうとも思うのだが(とくに京都や鎌倉など、歴史のある土地はそうである)、戸山の歴史を辿ると、曰く付きの土地とはこういうものか……という思いも一方ではある。(122ページより)

尾張徳川氏が社を大切に維持するなどし、敬意を持って土地に接していたために“凶宅転じて福となっていた”のかもしれない。

『事故物件の日本史』

 『事故物件の日本史

  大塚ひかり・著
  祥伝社新書

 

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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)、『この世界の中心は、中央線なのかもしれない。』(辰巳出版)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。

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