――軍に誇りを持っていたにもかかわらず、「敵」であるロヒンギャを擁護するようになったのは?

その前に、ミャンマーにおける学生の民主化運動について話す必要がある。

88年にミャンマー各地で大規模な学生運動が起きたとき、私は既に地元の大学を卒業し、英語教師の仕事をしながらアメリカの大学に行く準備をしていた。

実は本格的に渡米する前、私は観光で日本を訪れていた。学生運動が起きたとき、私は新宿区の中落合に住むミャンマー留学生たちとしばらく一緒に暮らしていた。そこでテレビを通じて学生運動で国が騒乱の中にいることを知った。

――その時どう感じた?

悲しくて涙が出てきた。誇りを感じていた軍人たちが、無抵抗な学生を殴打し、射殺している事実を受け入れることができなかった。その時テレビから聞こえてきた学生の叫び声を今も覚えている。

私は軍の家系に育ったが、軍が全てにおいて清廉潔白とは思っていなかった。民主的でないことが行われていることも聞いていた。それでも、汚職にまみれていた警察や政治家と比べれば、はるかに規律と統制のとれた存在だと信じていた。

ところが、テレビを見ながらそんな尊敬の念は消え去った。どうしたら自国民に対してここまで非人道的で冷酷なことができるのかと強く憤った。

――そして渡米した。

アメリカで学生をしながら、小さなフォーラムを主催してミャンマーの軍事政権や民主化運動について話をしていた。始めは小さなフォーラムだったが、そのうち主要なシンクタンクでも講演するようになり、徐々に顔を知られるようになっていた。

ミャンマー軍の圧政に反対するため、アメリカ国民にミャンマー製品のボイコットを訴えたこともあった。そうした活動は、98年に博士号を取得するまで続けていた。だが、それを知ったミャンマー政府から目を付けられ始めた。

ーー具体的には。

95年か96年頃だったと思うが、民主化を訴える私たちの活動がアメリカの新聞に掲載されたことがある。それを見た駐米ミャンマー大使館から電話がかかってきた。

内容は明らかな脅迫だった。身の危険を感じ始めたので、アメリカ政府に亡命申請を行い、政治難民になった。

それを知ったミャンマー軍は私のことを祖国の新聞に書きたて、家族に対するいやがらせも始まった。父親が当局に尋問を受けたこともある。軍に知り合いが多くいたことが幸いしたのかは分からないが、虐待されるようなことはなかったらしい。

それでも私の不安は続いたが、そのうち軍に対する怒りの方が勝るようになり、家族に対する懸念は薄れていった。虐待を受けている学生と民主化に対する感情の高ぶりを抑えることができなかった。それ以降、私はしばらく家族との通信を絶った。傍受されて家族に被害が及ぶリスクを考えてのことだ。

インタビュー後編に続く

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