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外出自粛の呼びかけにある「家は安全な場所」という前提

「見えている景色の違い」を感じる場面は、生活のいたるところにある。

たとえば、コロナ禍での「ステイホーム」の呼びかけ。もちろん感染対策として外出を控えてもらうことは大事なことだろう。しかし、図書館の閉館のニュースを聞き、胸がとてもざわついた。家にエアコンがない、虐待や夫婦喧嘩が絶えず家にいられないという子どもにとって、公共の施設は居場所となりうる。

「家が安全であるという前提」があってこそ、ステイホームは成り立つ。

ステイホームの渦中、大学ではオンライン授業になり、校内への立ち入りが禁止になった時期もあったそうだ。しかし、そもそもネット環境がない、パソコンを買えないから持っていない、一人になれる空間がない。そんな大学生だっているはずだ。しかし、そういう人たちの存在は想定すらされていないのである。

「買い物は投票」というメッセージをSNSで何度も見ることがあった。ファストファッションなど安い製品は、その生産工程に搾取が潜んでいることが多いから、買うのは控えよう、というものだった。企業理念に賛同できないから、その会社の製品を買わない、という選択肢をとる人もいる。

もちろん、個人の心がけならばどうぞご自由にといったところだろう。しかし、ファストファッションを買う人や、自分の理念と合わない会社の製品を買う人を非難したり馬鹿にしたりする人まで現れた。

購買を決める要因を「理念」に委ねるのは、ある程度の経済力があってはじめてできることだ。とにかく安いものを、1円でも安くという姿勢が非難されるとき、「切り詰めないと生活が崩壊する」人たちの存在は視界に入っていないのだろう。

個人に見えている世界はそれぞれであり、すべてではない

同じ世界で同じ時を生きていても、見えている景色はまるで違う。相手の置かれている状況が見えなければ事情を慮ることもできない。そして時に誤解や摩擦、軋轢が生じてしまう。

見えている景色が違うが故に生じる軋轢で、深刻なものがあった。コロナで困窮する人々に、

「普段から備えておかないからそうなるんだ」

「そんな不安定な仕事に就くからいけないんだ」

そんな言葉を投げかける人が散見された。

日頃から貯金ができる収入を得られ、リモートワークに対応してくれる規模の会社に勤めている人には、少しでも休めば生活が脅かされ、非常事態でも出勤し続けなければならない人たちの存在は、視界に入っていないのかもしれない。

自分の想像が及ばない属性に対し、人はどこまでも冷酷になる。簡単に「自業自得」「支援に公金を使うべきでない」といったジャッジを下してしまう。

貧困家庭への支援に対するバッシングも、本当に根強いものがある。

私は可視化したい、社会からこぼれ落ちる人たちの存在を