やがてわかってきたのは、日本中が「ゆるキャラ」をめぐるドラマに夢中になっているということだった。なんといっても、この現象を表す「ゆるキャラ」という言葉まで生まれていた。これはぼくが日本を離れたあとに広まったのか。それとも、ぼくが気づいていなかっただけなのか。いずれにしても、ゆるキャラはもう避けて通れない。ゆるキャラの王様は、もちろん「くまモン」だ。「くまモン」はどこにでもいる。けれども挑戦者格の「ふなっしー」もいるし、ほかにもプロレスラーさながらに独自のアイデンティティーをつくり上げ、それぞれの「物語」を背負って、競争の舞台に上がろうとするキャラクターたちがいる。
ぼくは、ゆるキャラを別の視点から見るようになった。ゆるキャラの広まりには、特異な能力がそそがれている。キャラクターを生みだし、名前をつけるために(ときにはある種の個性も与えるために)、おびただしい想像力が投入されている(もしかすると、ここに使うにはもったいないほどかもしれない)。ぼくが新しいキャラクターをつくれと言われたら、どこから手をつければいいのかわからない。もうありとあらゆることが試されているからだ。それでも、新しいキャラクターはまだ生まれてくる。ぼくは「ふなっしー」が千葉県船橋市の公認マスコットでさえないことを知って驚いた。誰が「ふなっしー」をつくったのかも、わずか数年でこれだけの認知を得たのが誰の功績なのかもわからない。
博物館で爆笑した一件に戻ると、ぼくの非科学的な見方によれば、笑わないように我慢することが逆に笑いの原因になるというメカニズムがある。さらにぼくは「ノーパン・ピーポ」を面白いと思っただけでなく、「安心感」を得られたから笑ったのだと思う。どこにでもいるこっけいな「キャラクター」に対するぼくの見方を、日本人も「共有」していることがわかってほっとした。でも次にわかったのは、話が逆だということだ。ぼくのほうが日本人の見方を共有していただけのことだった。
※抜粋第2回:どうして日本人は「ねずみのミッキー」と呼ばないの?
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