ぼくは長いことおかしなキャラクターに注目しつづけ、本当におかしなものは写真に撮っている。ぼくはキャラクターの名前をあまり気にしていなかったのだが、好きなもののなかには、たとえば公正な選挙を呼びかけるキャラクター(羽のついた猫が怒っているところだろうって? もちろん!)や、住宅情報サイトのシンボルになっている緑色のふわふわしたボール(緑色のふわふわしたボールもどこかに居場所が必要だから?)、あるいは仙台の「おにぎり頭」の観光PRキャラクターがある。

 日本文化のこうした側面をおかしいと思う外国人はぼくだけではなかったと思うが、ぼくは自分のことも少し心配していたことを認めなくてはならない。「ふん、日本はこういうこっけいなキャラクターだらけで、それがおかしいと思えるのはぼくのような外国人だけなんだ」というふうに考えている自分に気づき、これはちょっと見下した態度だと思った。

【参考記事】嵐がニャーと鳴く国に外国人は来たがらない

 仕事のうえでも私生活でも、ぼくは日本人が変わっているわけではないとか、まったく違う考え方をする人たちではないと主張する立場に身を置いていることがよくある。ときにイギリス人はなんの遠慮もなく「日本人って変な人たちなの?」と聞いてくる。そういう質問に、ぼくはいつも強く抵抗している。「外から見るとふつうではないようにみえることもあるけれど、歴史や文化の背景を考えれば納得がいく」と、ぼくは答える。あるいは「日本に初めて来たときには不思議に思えたことが、今ではまったくふつうに感じられるようになったと思う......。外から見ただけでは必ずしもわからない一貫性が内部にはあるんだ......」とか。そしてぼくは、そういう質問をすること自体が偏見の表れではないかと考えたほうがいいと、聞いてきた人にそれとなく、あるいはわりにはっきりと言う。

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 たとえば人々は、日本人は通勤のときに駅員の手で電車に「押し込まれる」ことを知っていて、どうして彼らはそんなことに耐えられるのかと尋ねてくる。ぼくは、なぜそうしたことが起こりえたかを説明する(きっと説明しすぎている)。日本では明治時代以降の実に急速な近代化によって、経済と政治とアカデミズムが都市部に集中したこと。日本では税制上の理由から、企業が社員の通勤交通費を支払うことが理にかなっており、そのため社員が長時間の通勤にも耐える動機を生んでいること。電車の運賃はロンドンよりかなり安いので(ただしロンドンの電車も、混雑ぶりは日本に追い着きつつある)、単純な運賃設定だったら人々は安くて混雑している電車に乗ることをそんなに気にしないこと。自分のまわりのスペースが減っても、人はそれなりに慣れていくということなど。

 そんなわけで、ぼくはキャラクターのことをおかしいと思いながら、その理由を説明できずにいる自分の矛盾した立ち位置に、ずっと居心地の悪さを感じていた。

 友だちが「ノーパン・ピーポ」と言ったとき、日本人もキャラクターのばかばかしさを理解していることに、ぼくは気づいたのだ。実際、キャラクターについては日本人のほうがぼくより厳しい目で見ている。ぼくは「ピーポくん」の外見がおかしくて、名前が変だと思っただけだった。でもぼくは、日本の人たちが「どうして彼はベルトを着けているのにズボンをはいていないの?」と疑問を投げかけたり、もっと気のきいた名前をつけようとしたりしていることも知っている。