<出版物で吉原を盛り上げ、吉原とウィンウィンの関係を築く蔦屋重三郎。「吉原細見」で吉原のブランドを引き上げ、版元としても名をあげた蔦重の工夫について解説する>

1月19日に第3回の放送を控え、早くも話題を呼んでいる大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。

「吉原細見」の判型を大きくして1ページの情報量を増やし、一目でわかりやすいレイアウトにしたり、平賀源内以外にも当時の人気作家に序文・跋文を依頼したりなど、ただの吉原のカタログをエンタメとしての魅力あるガイドブックに仕立て上げた蔦屋重三郎。

今回はドラマを楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる、「吉原細見」における蔦重の功績についてお届けする。

本記事は書籍『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。

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画期的な遊女の評判記「一目千本」

蔦屋重三郎は、1750(寛延3)年に江戸・吉原に生まれた。両親ともおそらく、吉原に関係する仕事に従事していたと思われる。重三郎は、幼い頃(一説では7歳頃とされる)に喜多川家へと養子に入り、この喜多川家が経営していた商家が「蔦屋」であった。やがて、吉原大門口の五十間道(ごじっけんみち)で茶屋を営んでいた蔦屋次郎兵衛の軒先を間借りして書店を始め、鱗形屋孫兵衛の『吉原細見』の小売・取次となった。吉原出身という境遇は、かなり役に立ったことだろう。

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五十間道は吉原大門口の手前にある
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『廓費字尽(さとのばかむらむだじづくし)』恋川春町作・画 1783(天明3)年 国立国会図書館蔵:往来物をパロディ化した黄表紙で、部首を揃えた漢字を並べ、その読み方を歌にして教える。漢字のほとんどは創作であり、吉原の遊びや周辺事情にこじつけられる。画像は、版元・蔦重の新吉原大門口の店頭を描いたもの。

1774(安永3)年7月には版元として初めての出版物となる『一目千本(ひとめせんぼん)』を刊行する。挿し花を遊女に見立てるという斬新な趣向の遊女評判記で、浮世絵界ではすでに重鎮の地位にあった北尾重政を起用している点を見ると、鱗形屋の後援があったのだろう。

翌年3月には、『急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)』が刊行された。これは『一目千本』と同じく遊女評判記の性格を持つ本だが、3月に行われたこの年の吉原俄(よしわらにわか)(毎年行われる吉原内の余興・即興芝居)での配布物として作られたと思われる。遊女の紋が入った提灯の絵に、遊女の選評が併録されている。

『一目千本』も『急戯花之名寄』も、評判記ではあるが、吉原の遊女全体を網羅しているわけではない。おそらく掲載された遊女や妓楼からの出資によって、贔屓客への土産のために作られたのだろう。吉原の人々からの信頼が厚い蔦重ならでは、といえる。

1775(安永4)年には、吉原細見の圧倒的なシェアを誇っていた鱗形屋が重板事件(無許可で他の版元の本を複製・販売した)に巻き込まれ、吉原細見の刊行ができない状態に陥っていた。その状況に目をつけたのが、蔦重であった。小売取次の蔦重が自ら、吉原細見の版元となったのである。

吉原と人気作家を結ぶ蔦重の人脈
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