私はすべてに現実感がわかない年ごろに、まるで現実味のないセットで撮影していた。あの妙ちきりんな髪形にするだけで2時間もかかった。

あのころジョージは無口だった

 どういうわけか、宇宙には下着というものがないらしく、ブラジャーはつけていなかったから、走るシーンになると胸をテープでとめられた。私はこう言っていた。「この撮影が終わったら、スタッフみんなでオークションをしましょう。勝った人に、私の胸のテープをはがさせてあげる」

 それで、また思い出した。日記には、こんなことも書いてあった。「変人には3つの段階がある。①救いようのある変人 ②変人 ③救いようのない変人」

 1作目の撮影が終わると、ジョージはロンドンで編集をした。私もそこで、自分のテーマ曲を聞かせてもらった。それも、ジョン・ウィリアムズ指揮のロンドン交響楽団の演奏で。もちろん、自分のテーマ曲を作ってもらったのは初めてだった。

 あのころのジョージは無口だった。撮影現場を取材に来たロサンゼルス・タイムズ紙の記者が、3日目に「ところで監督はどの人なの?」と言ったというジョークがあったほどだ。

 撮影のとき、ジョージは2つのことしか言わなかった。「もっと速く」と「もっと激しく」。撮影中のある日、彼の声が出なくなったことがあった。でも、もともと無口な人だから、誰も気づかなかった。私たちは、ジョージが2つの指示を出せるよう2種類のホーンを用意しようかなどと、みんなで冗談を言っていた。

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 完成した作品を見るのは、いつも妙な気分だった。私たちにとっては、ホームムービーのようなものだった。宇宙を舞台にした、とてもよくできたホームムービー。

 撮影の間、私たちはほとんど出ずっぱりだったけれど、あるとき、宇宙人の衣装を着たまま1日中待たされたことがあった。5時になると、ハリソンはプロデューサーの部屋に行って言った。死ぬときにこの1日を返してほしいって。でも私は、自分なら人生の真ん中で返してもらいたいと思った。ちょうど今ごろの時期に。

人生で最高の時間だった

 最後にもう1つ、本当は内緒の話なのだけれど、この際だから明かしてしまおう。

 私は当時、コメディアンのエリック・アイドルの家に住んでいた。エリックはチュニジアで『モンティ・パイソン ライフ・オブ・ブライアン』の撮影を終え、おみやげにお酒を持って帰ってきた。撮影中、エキストラが長時間働けるように配ったというお酒だ。

 私はアルコールがだめなほうだし、ハリソンもあまり飲まない。でも、あの晩はパーティーになった。すぐ近くのスタジオでレコーディング中だったローリング・ストーンズも一緒だった。

 私たちは朝まで飲み続けて、そのまま撮影に。一睡もしていなかったけれど、チュニジアのエキストラみたいにやる気満々だった。