この間、宮島は、自分の中にあるアート的なものを言語化していく過程で、アートの社会的な意味と役割と使命があるということに気付いたという。

そして、芸術大学出身者の99%以上は作家になれないとしても、アートを学ぶことが、人間としてやっていける力、すなわち、本来人間が持っている、相手の痛みや苦しみを理解する想像力や思いやり、困難がおこったときにイノベーションを起こせるような創造力や発想力に繋がることを目指したという。

さらには、アートの特性は平和と直結しており、人と人とを分断し傷つけ合う状況を、言語や人種を超えて理解し合うことなどにより、プラスの方にもっていくのが芸術ではないかと考え、アートを戦争の反対にあるものとして、大学で芸術平和学という科目を立ち上げたりもしている。こうして、「Art in You」や「Peace in Art(平和はアートの中にある)」をいかに若い学生たちに伝え、残していくかに専心していった。

この大学での10年間について宮島は、「49歳から59歳までの作家として一番油の乗った時期に、京都と山形の往復で時間をとられ疲弊するだけでなく、作品制作も制限されるので、アート界でのキャリアを築きにくいリスキーな選択ではあったが、教育者として活動した10年でアーティストとしての体力は随分付いたし、アーティストとしての生き方においては重要な時代だった」と語り、教育もアーティストのキャリアの一部という考えを示している。

第4エポック 時の海―東北(2017~)

こうして、絶望と希望の繰り返しを経験してきた宮島は、2011年の大学在任中に再び大きな絶望を味わうことになる。東日本大震災の勃発である。山形の大学には、近隣の宮城や福島といった被災地から来ている生徒も多く、メンタルがやられてしまう学生が沢山いたという。学生だけでなく、宮島自身もしばらく制作出来ない日が続き、このまま普通にやっていて良いのか?という疑問を抱かざるを得なかった。そうしたなかで始めたのが「時の海―東北」プロジェクトであり、これが「時の海」シリーズの集大成として、宮島自身が最後のライフワークのひとつと位置付けるプロジェクトとなるのだ。

本プロジェクトでは、私たちの価値観・世界観を大きく揺るがせた「あの時、あの人に逢いにいく」ことをテーマに、亡くなった人々への鎮魂と未曾有の大災害の記憶を後世に伝え、未来への希望に繋げていくために、被災地域だけでなく、震災の記憶が飛び火した全国各地でタイムセッティングを実施。最終的には、約3000個のLEDデジタルカウンターを東北沿岸部の海の見える場所に末永く設置することを目指し、現在も場所を探し続けるとともに、個人資金に加えクラウドファンディングなどで資金集めをしながら、2027年頃の完成を目指して活動を継続中である。

改めて、宮島に自身のキャリアを振り返ってもらうと、「最初は前へ前へとアグレッシブで、自分のことしか考えていなかったし自分のことしか出来なかった。だが、華々しく国際アートシーンにデビューして絶望を味わい、柿の木プロジェクトによって周りの人たちとの関わったことで、アートの役割や社会との関係性のようなものを考えるようになり、さらに教育に携わることで、未来の人材にどのように伝えていくべきかを模索するようになっていった......。その時々で必死に続けていくことで、自身の考え方も変わっていったし、アーティストとして成長させてもらった」という。