戦争を最終的な帰結として、そこから逆算的に様々な思想や政策を評価していく手法は、ときに評価すべき思想や政策を正当に評価できなくなる。しかしそれは、「安全保障」という議論そのものにも潜んでいるのだ。「安全保障」の議論はまず、何もしなければ破滅的な戦争が起こる、ということを前提とする。そしてその結末を回避するために、軍事力の強化や軍事同盟の締結、武力行使など、あらゆることをなすべきだと主張される。
しかしその一方で、「安全保障」の議論は、戦争の勃発を前提としていることにより、あらゆることを戦争の徴候を見出してしまう。極端な場合、スパイの危険性を理由に外国人観光客や留学生流入を制限しようとしたりする。もちろん「安全保障の専門家」はそのような乱雑な議論はしていないだろうが、戦争は起こるということを前提にしているので、戦争の準備をしないという選択肢は最初から排除されてしまっている。
これはある意味では終末論思想の考え方に似ている。終末論思想は終末が起きることを前提にしているため、地震や疫病など、あらゆる現象を終末と結びつけてしまう。そして人間にできることは終末の準備をすることだけであり、あるいは、せいぜい終末を「抑止」つまり「遅らせる」ことしかできないとされる。
しかし、世界とはそのような決定論によって定められるものではなく、様々な可能性にあふれている。「戦争が起きるぞ」という麻生発言のようなものが出てきたとき、私たちはつい「安全保障」の言葉で反論したくなる。しかし、それこそがまさに、私たちの思考を戦争の必然性へと凝り固まらせる「手口」なのだ。このような戦争の必然性に対しては、私たちは平和の可能性をもって対抗しなければならない。