「残業代ゼロ」に反対する工業社会の亡霊

2014年5月14日(水)16時06分
池田信夫

 政府の産業競争力会議で、労働時間ではなく成果に応じた賃金を認める規制改革が提案され、安倍首相も賛成した。この具体策を5月14日の会議で検討する予定だったが、会議は延期されてしまった。所管する厚生労働省や労働組合が「残業代ゼロ」に反対しているからだ。これは第1次安倍内閣の労働基準法改正で「ホワイトカラー・エグゼンプション」として提案され、同じレッテルで葬られたものだ。

 これを「残業代ゼロ」と呼ぶのは誤りである。そもそも勤務時間がなくなるのだから、残業も残業代もなくなるのだ。これは「残業代ゼロ」を攻撃している朝日新聞などのマスコミと同じだ。記者の仕事はほとんど外回りで勤務時間が測れないから、残業代はない。私がNHKに勤務していたころから、記者は(他社と同じく)特定時間外というみなし勤務で、職場ごとに一定の手当をもらっていた。

 それ以外の職種は(私のような)ディレクターも含めて、普通の残業手当をもらって勤務していた。どっちが勤務実態に即しているかといえば、明らかに記者のほうだった。報道局の中でも、ニュース番組のようなデイリーの仕事をやっていると、残業はすぐ100時間ぐらいになってしまうので「サービス残業」が常態化していた。

 残業時間に意味がないことを一番よく知っているのは、官僚だろう。国会の開会中には「国会待機」と称して、深夜まで多くの官僚が役所に残っている。仕事はほとんどしていないが、残業時間は200時間を超えることもざらにある。民間企業でもだらだら残業するおかげで、日本のホワイトカラーの(時間あたり)労働生産性は主要国で最低水準だ。

 ソフトウェア企業やネットメディアの多くは在宅勤務で、オフィスに決まった机のない企業も増えている。たとえば私の経営している株式会社アゴラ研究所には、残業代どころか勤務時間の規定もない。ほとんどの仕事はオンラインで自宅からでき、会議もFacebookのグループでやるので、全員が集まるのは週1回のミーティングだけだ。全員が契約社員で、他にも仕事をもっている。

 IT企業だけでなく普通のホワイトカラーでも、裁量労働制をとるところが増えている。サービス業で一律に労働者を拘束するのは外食や流通の単純労働だけだ。時間で労働時間を計ることに意味があるのは、流れ作業ですきまなく働いている工場労働者だが、そういう賃金では日本は新興国と競争できない。今回の提案は「年収1000万円以上」を対象にしているので、そういう単純労働は含まれない。

 ひとりが同じ職場にべったり拘束されるのは企業にとって高コストになるだけでなく、労働者にとっても苦痛だ。職場にいつまでも残って残業代をもらうより、家族と過ごす自由な時間のほうが価値がある。雇用規制は社内失業している中高年を守る役には立つかもしれないが、雇用コストを高め、雇用創造を困難にする。いま必要なのは、雇用形態を多様化して企業と労働者の自由度を高めることだ。

 全員が同じ勤務時間で働くのは、たかだか最近200年ぐらいの特殊な労働形態である。歴史の大部分では人々は必要なときだけ働き、時間は季節によっても地域によってもバラバラだった。機械制大工業になってから、時間は正確に同じで、人々は時計で同期をとって共同作業するようになった。工場では同じ時間に出勤して同時に仕事しないと効率が落ちるので、資本家は労働者に時間厳守を要求した。工場では個人にノルマが与えられ、人々は限られた時間の中で休む暇なく同時に働いた。

 しかし脱工業化社会では工場が作業の場ではないので、人々は非同期的に行動する。時間は個人化し、労働者は同期から解放されて自由になったのだ。日本はもう「ものづくり」で成長することはできない。これからは創造的な仕事にふさわしい柔軟な働き方を、それぞれの職場で工夫する必要がある。残業代で労働者を遅くまで職場にしばりつけるのは、日本経済の行き詰まりをまねいている工業社会の亡霊である。

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