原発は「トイレなきマンション」か

2012年10月19日(金)13時22分
池田信夫

 政府の「原発ゼロ」政策が迷走している。9月に「2030年代に原発稼働ゼロ」を目標とする「革新的エネルギー・環境戦略」を発表したばかりなのに、青森県の大間原発は建設を再開した。この運転終了は、2058年の予定だ。廃止の方向を打ち出した高速増殖炉「もんじゅ」は地元の抗議を受けて「当面存続」に転換し、青森県六ヶ所村の再処理施設も操業を続けることになった。

 この方向転換の背景には、「原発ゼロにするなら再処理は認めない」とするアメリカ政府の警告があった。日本は核拡散防止条約に加盟しているが、核武装していない国としては例外的に核燃料を再処理してプルトニウムを生産することが認められている。これはプルトニウムを使って高速増殖炉でエネルギーを「自給」しようという方針のためだが、高速増殖炉が行き詰まり、核燃料サイクルが危機に瀕している。

 使用ずみ核燃料の「全量再処理」というこれまでの方針を転換し、再処理しないで直接処分するとなると、それを埋める最終処分場が必要だが、その目途は立っていない。このため日本の原発は、よく「トイレなきマンション」に例えられる。核廃棄物は全国の原発の中にある使用ずみ核燃料プールに暫定保管されているが、その容量は約2万600トン。そのうち1万4800トンが埋まり、あと10年でいっぱいになると予想されている。

 このため政府は、高レベル放射性廃棄物を地下に埋める地層処分の検討を始めた。原子力委員会の依頼を受けて、学術会議の検討委員会はこの問題について1年にわたって検討し、9月に報告書を出した。ここでは「現代の科学・技術的能力では、千年・万年単位の安全が必要な地層処分に伴う危険性を完全には除去できない」として、高レベル放射性廃棄物の処分に関する政策を「抜本的に見直す」ことを提言しているが、具体的な内容は曖昧だ。

 まずリスクを「完全には除去できない」ことは自明である。日本列島のどんな場所でも、地震のリスクはゼロではない。問題はリスクを「完全に除去」することではなく、予想されるリスクと経済的な利益のどちらが大きいかだが、この検討委員会には経済学者がいないため、費用と便益のバランスがまったく考慮されていない。

 ここで主として想定されているのは、地震によって核物質が地下水に漏れ出すリスクだが、これはダイオキシンやカドミウムなどでも同じだ。放射能は時とともに減衰するが、こうした有害物質の毒性は永遠に変わらない。放射性廃棄物より毒性の強い物質はたくさんあるが、地下300メートルに埋めることは義務づけられていない。なぜ核物質だけに「千年・万年単位の危険性」を除去することが求められるのだろうか。

 使用ずみ核燃料の地層処分は技術的には確立しているが、政治的にはきわめて困難で、各国でも難航している。アメリカでは、ほとんど完成していたネバダ州ユッカマウンテンの処分場が、オバマ政権によって凍結された。しかし原発に暫定保管していると、福島第一原発の4号機のように冷却できなくなったら爆発するおそれがある。地層処分のほうが相対的に安全であることは明らかだ。

 原子力政策についての合意形成が困難になる最大の原因は、このようなゼロリスク症候群である。必要なのはリスクをゼロにすることではなく「どの程度のリスクなら受け入れ可能か」を考えることだ。その基準としては、他の有害物質と同等の基準を適用することが考えられる。

 一定のリスクを認めれば最終処分の方法はいくらでもあり、政府もこれまで技術的な検討をしてきた。もっとも安全な方法は日本海溝に投棄することだが、これはロンドン条約で禁止されたため政治的に不可能だ。次にリスクが少ないのは海外(たとえばシベリアの原野)に投棄することだが、これは条約では可能だが政治的な反対が強い。

 国内でも、物理的に安全な廃棄場所はある。たとえば六ヶ所村の再処理施設は1100ヘクタールもあり、その地下に核廃棄物を埋めることは容易だ。地震の確率はゼロではないが、核施設があるので管理は容易だ。再処理の経済性は疑わしいので、いずれ不要になる六ヶ所村の跡地利用としても有力だろう。使用ずみ核燃料はゴミではなく、再利用可能なウランやプルトニウムなので、新しい「第4世代原子炉」で使える可能性もある。

 要するに、トイレをつくることは技術的には容易だが、政治が障害になっているのだ。それをさまたげているのが、ゼロリスクを求める国民感情と、それに迎合する政治家やマスコミである。おまけに学術会議の科学者までゼロリスクの大合唱に加わるようでは、合意形成の道は遠い。

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