「長い江戸時代」が日本企業のグローバル化を阻害する

2012年7月20日(金)14時07分
池田信夫

 今年3月期決算で7700億円もの最終赤字を計上したパナソニックは、テレビ部門などの事業売却を迫られているが、決断は容易ではない。新社長に就任した津賀一宏氏は「当社は中小企業の集合体だ。管理職は社内の交渉に明け暮れている」と嘆いた。日本企業は現場の自律性が高く、労働者がよく働く。松下幸之助が創造した事業部制は、こうした特徴を利用したものだが、要素技術で新興国に追いつかれ、システムやソフトウェアで勝負しなければならない現代には、この分権的な組織が足枷になっている。

「サービス残業」がよく問題になるが、時間外勤務を命じられなくても労働者が「自発的に」残業するのは日本特有の現象だ。これは彼らの頭の中に「残った仕事は自分が片づけなければならない」という労働倫理が植えつけられているからだろう。それを生みだしたのは、江戸時代だったという説が経済史では有力だ。

 1600年には日本の人口は1200万人ぐらいだったが、1700年には3100万人に激増した。この最大の原因は、15世紀後半から続いていた戦乱が徳川幕府の成立で終了し、長い平和が続いたことにある。農民は村にしばりつけられ、村が農地を管理して納税する村請の制度が確立した。領主が徴税人を使って農民から徴税するのではなく、農民が自発的に村に年貢を収めて村が納税する分権的な徴税システムが組織のモデルになった。

 年貢は「五公五民」などといわれたが、実際には徴税の基準となる石高は1700年で凍結され、再測量には農民が百姓一揆で抵抗したので、幕末には実効税率は8%程度だったといわれる。新しく開墾した土地は課税対象にならないため、山の上まで棚田をつくって土地を極限まで効率的に使い、長時間労働で収量を上げる労働集約的な農業が生まれた。

 同じころ欧米では、広い土地を牛馬で耕作する農業の機械化が進んだが、日本では牛馬が減って人間が耕作するようになった。狭い土地を効率的に使うには、牛馬よりも人間が作業したほうがいいからだ。このように機械を人間が代替して労働時間が増える現象は世界的にみても特異で、速水融氏はこれを勤勉革命(industrious revolution)と呼んだ。イギリスの産業革命(industrial revolution)が労働節約的な技術に資本を投下したのに対して、日本人は労働集約的な技術で生産性を上げたのだ。

 これは平和な時代に激増した過剰人口を使って狭い土地を使う、合理的なイノベーションだった。農民は人口数百人の村に死ぬまで暮らすので、誰が怠けているかはすぐわかる。傾斜の大きい日本の土地では、水を共同で管理する灌漑が重要で、稲作では田植えのような集団作業が多いため、人々が自由に時間を使うことはできない。命令されなくても、村の「空気」を読んで夜遅くまで作業する習慣ができた。

 このような勤勉さが、日本が工業化に成功する重要な原因だった。村の代わりに工場が生産の単位になり、生産量が上がれば労働者に平等に分配され、納税から年金まで会社が面倒を見る「村請」型コミュニティになった。一つの村で「一所懸命」に仕事する労働倫理は職人的な技術を蓄積する上でも有利で、ゼロ戦や戦艦大和のような名作を生みだした。しかしゼロ戦は職人芸に依存しすぎて量産できず、大和は航空戦時代には無用の長物だった。

 こうした特徴は、現代にも受け継がれている。デバイスなどの要素技術は得意だが、それを組み合わせる戦略やシステムが弱い。「ガラパゴス携帯」のように各部門の要求を雑多に取り入れ、製品としては複雑で使いにくくなるが、「不要な部分を切れ」という経営者がいない。日本企業はタコツボ組織の集合体だから、強いリーダーはきらわれるのだ。

 この結果、全体を統括する経営戦略がなく、国際競争力のなくなった部門が切れず、グローバル化に対応できない。現場に権限を与えて個別の「ものづくり」の効率を高めた松下電器の分権的組織は、一時は世界の企業の手本だったが、今では日本の工業製品はゼロ戦のような部分最適になりつつある。

 江戸時代の平和が260年以上も続いたのは、鎖国によって産業革命の影響を遮断した効果も大きい。戦後の日本も閉鎖的な国内市場に支えられて平和な江戸時代型システムを続けてきたが、新興国の追い上げが激しくなった2000年代以降は、国際競争力の低下が低成長の原因になっている。長い江戸時代を卒業し、個人や国が自立して強いリーダーが組織を指導するという福沢諭吉以来の宿題に、日本人は今度こそ取り組まなければならないのだろう。

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