香港新世代の誕生:反「洗脳教育」運動

2012年9月11日(火)13時26分
ふるまい よしこ

 今年は何度もこのコラムでも書いてきたが、香港が熱い。

 9月9日日曜日、7月に4代目の行政長官が就任したばかりの香港で主権返還以来5回目となる立法評議会(立法機関)議員選挙が行われた。開票の結果、投票率は53%、投票者数は183万人と返還以来最高を記録した。

 香港の選挙制度では、有権者は事前に投票者登録を済ます必要がある。このため、選挙のたびごとに有効有権者の母数は変化するが、これまで最高だった前々回2004年は178万人が投票、投票率は55.64%で歴代最高となった。この投票率の記録は今も破られていないが、投票者数は今年が大きく躍進した。

 04年の選挙の高投票率は、03年に中国で感染が拡大していたにもかかわらず、政府が実情を隠していたSARS(重症急性呼吸器症候群)が、香港に何も知らされないまま持ち込まれて大流行し、観光や貿易などを柱とした経済が大打撃を受けて市民の不満を反映したものだった。それに加えて当時、香港の憲法にあたる「香港基本法」に「国家転覆罪」を盛り込んだ公安条例を追加しようとした政府に対しても市民が怒りを爆発させたことが背景にある。もちろん、その先は中国政府の不適切な処理や圧力に対する抗議がある。

 今年の立法評議会選挙が再び高投票率、最大の投票者数を記録したのも、やはり中国政府の影とそれに従順な香港政府に対する不満があった。9月に入って以来、投票日前日まで市民が香港政府庁舎を囲み、抗議集会が続いた。そして金曜日の夜には10万人を超える人たちが仕事や学校を終えてから付近に結集、その様子はネットでも流れたが、事前の申し合わせ通り黒いTシャツを身に着けた人たちが集う光景は壮観としかいいようがなかった。

 事の起こりは2010年に前任の曾蔭権行政長官が、それまで各学校で課外教育として「香港人学生の国に対する認識と国民としての共感を深める」ための教育カリキュラムを、今年9月から始まる新学年年度から順次、小中高校の各校へ導入し、16年からの全面実施を目指すと決めたことだった。それに合わせて昨年5月から8月にかけて「諮問稿」が作られ、市民の意見が集められた。

 だが、そのたたき台となった「諮問稿」では「国民資質や品性をいかに高めるか」という原則基づいた手法や目標が客観的に述べられているだけで、多くの人たちの関心を引くには至らなかった。しかし、今年3月になってそれに基に作られた教学マニュアル「中国模式-国情テーマ教学マニュアル」が配布されてから、教育関係者の間でじわじわと異論が湧きあがり、7月に大規模な反対キャンペーンに結びついたのだ。

 マニュアルの表紙には人民大会堂や北京オリンピックメイン会場となったバードネスト、上海の東方電視塔、そして中国の国旗である五星紅旗の上に人民元の札束が積まれた写真が並ぶ。カネ、不動産、発展そのまんまの、教育現場にふさわしいとはあまり言えないデザインだが、中国国内では人々の発展気分を高揚させると信じられ、あちらこちらで誇示されるそれだ。

 中身をいったん開くと、まず経済的に飛躍し、外交舞台で活躍する中国の背景をたたえ、「東方的な色彩を帯び、中国の特色ある社会主義制度の特色をカネそろえた産物で、自由市場主義を尊ぶ『ワシントンモデル』、『持続的発展』の概念を掲げた『ブタペスト・クラブ』などのモデルに匹敵し、さらに改良された『中国モデル』は我々が理解するにふさわしいもの」と説明がある。そしてその一方で、「中国モデルとワシントンモデルの違いは、前者が助けるのは一般市民であるのに比べ、後者は銀行家が主体となっている」と書き加えられている。

 政治面の説明では、中国の現体制は「社会主義的民主政治」を目指し、「中国共産党は中国の執政党であり、人民民主専政を維持することこそが中国共産党の指導を維持すること」、「人民民主専制制度とは、労働者階級を中国の指導階級とし、工業及び農業の共同体制こそ中国の国家政権の階級的基礎である」と述べる。このあたりですでに「国情」理解なのか、「中国共産党」理解なのか、だんだんあやふやになっている。

 正直わたしはこれに目を通しながら、中国共産党の中国観、世界に対する価値観を読み解くにはとても良くできていると思った。問題は、これを国際都市の香港の学校教育で義務付けするという点だ。情報が政府によって遮断されている中国国内ならばともかく、テレビのチャンネルをひねれば簡単にCNNやBBC、NHKを観ることができ、外国語による情報収集も普及している香港で、このような価値観に共感を覚える人はそれほどいない。

 さらに最も香港人の神経に触ったのが、「進歩、無私、団結した執政グループ」という表現だった。中国の政治制度を「西洋民主国家の執政党が交代する方法とは違い、中国の執政グループは国に仕え、人民に仕えることに主眼を置いており、管理統治理念や方向性が大きく変わることはなく、政権が継続、社会の安定が確保されている」と解説する一方で、「アメリカは政党が林立し、民主党、共和党が多数党として交代で執政する。両党はたびたび有権者の気を引くため、あるいは意地の張り合いから、ライバルの執政党が提案する年度予算案を拒絶し、それによって政府機能や公共サービスが停止し、現実に社会民生の運営に影響を与えている」というコラムが並ぶのも、中国に多党政治を基盤にした民主化を求めている人たちの神経を逆なでした。

 市民の間からは「価値観の押しつけだ」という声が高まり、「洗脳教育導入反対」が叫ばれ始めたのが7月、これまでになく親中だとみられている梁振英・新行政長官が就任した直後からだった。同月末には国民教育カリキュラムの撤回を求めて、9万人がデモ行進、また夏休み入りしたこともあって街中での抗議活動、抗議集会も活発化した。

 だが、梁長官は「政府が一旦決めたことを撤回するのは(市民が考えるほど)たやすいことではない」と強硬な態度を表明。その間に教育局長が中国入りして中央政府トップと意見を交換したとのニュースも流れ、市民は疑念を深めてますます「洗脳教育反対!」の声に力が入るようになった。

 その結果、9月の新学年度開始を前に8月末から学生3人が政府庁舎前広場でハンスト実施。3日の登校日には全市民に対して黒い服の着用、制服の学生たちは黒いリボンをつけて「国民教育導入反対」が呼びかけられた。大学でも国民教育導入に反対する学生たちが一斉に授業ボイコットによる政府への抗議活動を計画し、さらに香港中文大学や芸術系大学の演藝学院では学校側も「学生たちの思いは共感できる」とその活動への理解、協力を表明した。

 政府庁舎前のハンストはその後、元教師、学者、子供を持つ親たち、さらには1970年代にイギリス植民地政府下で社会運動を展開した老活動家たちに引き継がれ、毎日のように学校や仕事を終えた人たちが現場に駆け付け、支援や声援を送った。立法評議会選挙を2日後に控えた7日夜には12万人が集まる大抗議集会が開かれ、政府庁舎は真っ黒な服を着た人たちに包囲された。

 その翌日、つまり立法評議界選挙の前日夕刻になってとうとう梁行政長官は緊急記者会見を開き、「国民教育カリキュラムの導入は学校の独自意志に任せ、期限を設けない」という譲歩案を発表。だがカリキュラムの撤回は拒否したために、学校への支援金配分などを使って政府が暗に学校に実施圧力をかけていくのではないか、という疑念は消えていない。

 立法評議会議員選挙はこの国民教育カリキュラム導入の可否をめぐる大論争で完全にかすんでしまった。そして、選挙の争点も中国政府に順応するカリキュラムの導入を支持する親中派、そして「洗脳教育だ」と激しく反対する民主派という図式で位置付けられた。

 しかし、香港の立法評議会議員はもともと親中派議員が選出されやすい土壌がある。というのは議員の選出には、一般市民(登録済み有効有権者)の投票によって五つの選挙区から選出される「直接選挙グループ」と、あらかじめ規定された産業界から選出される「職能グループ」という二つのグループがあり、この「職能グループ」議員には親中派が多いのだ。

 イギリス植民地時代に産業界からの声を立法機関に直接反映すべく設けられた制度を引き継いだ「職能グループ」は現在、漁業・農業、保険、教育、交通運輸、会計、医学、法律、エンジニアリング、建築・測量、不動産・建築、観光、貿易、アパレル、飲食、文化・芸能...など28業界から35人の代表議員が選ばれる仕組みである。その選出方法は業界ごとに違い、事前登録済みの業界関係者全員が投票できる業界と会社あるいは団体代表のみが投票できる業界がある。

 だが主権返還以来、香港の経済界において中国は無視できない影響力を発揮しており、今や商業や建築、貿易、金融、観光、運輸などの業界は中国との連携なしには生き残れない。そのため、中国との緊密過ぎる結びつきを警戒する法律、教育など一部民主派基盤を除けば、「職能グループ」選出議員はどうしても親中傾向が強くなる。このために民主派が立法評議会内で発言力を持つには「直接選挙グループ」35議席での「勝利」が必須だった。

「反国民教育」キャンペーンで今回の選挙は親民主派有権者の増大が期待され、また実際に投票者数及び投票率は時間を追ってぐんぐんと伸び続けた。投票率が高ければ民主派に有利――過去の経験則からその期待は高かった。しかし、過去の選挙の「黄金のセオリー」は今回威力を発揮しなかった。

 民主派の当選者は、前回の30人から35人に増員された今回の「直接選挙」枠で民主派当選者は19人から18人に後退、逆に「建制派」(制度構築派)と呼ばれる親中派が17議席を獲得した。一方、これまで「職能グループ」で投票権を持てなかった市民の「一人二票」を実現するために新設された「スーパー議席」5議席のうち3議席を獲得、さらに一部「職能グループ」で親中派を破った分も含めて、全立法評議会70議席中、拒否権を発動するための三分の一をどうにか超えた27議席を確保しただけだった。

 今回の「敗因」を政治学者たちは明らかに民主派の戦略の失敗だと口をそろえる。「親中派はトップ当選などのメンツにこだわらずにこつこつと当選だけを狙い、各選挙区で候補者及び有権者の投票をうまく配分した。逆に民主派は政党間の協調が全く行われず、得票総数では親中派よりも高かったのに候補者同士で票割れを起こして虻蜂取らずとなった」と分析されている。

 親中派は中国からの莫大な資金バックアップを受けて、果敢に有権者の動員を試みた。一人暮らしや体の不自由な老人をバスで投票所まで送り迎えするなどの人海戦術はこれまでの選挙でも親中派の得意とするところだった。さらに一部では親中派は日頃からそうした老人に付け届けを続けているとされる。そんな親中派の資力に対抗するには民主勢力に協調と協力が必須だが、確かにここ数年その足並みの乱れが目立って増えている。特に「反国民教育」という共通の、そして最大の争点があった今年もこの体たらくなのだから、選挙結果確定後ずっと、「民主派はメンツや過大な理想よりも協調を」という声があちこちで渦巻いている。

 だが、民主派に希望がないわけでもない。今回の選挙で得票が高かった民主派は議会内の3大政党の第2、第3の位置を確保した。これは2000年以来12年ぶりのことだ。明らかに市民による直接選挙では民主派への期待感はまだ堅い。

 さらに今後期待されるのが、今回の選挙では有効な有権者にはなりえなかったが、「反国民教育」キャンペーンには実は多くのティーンエージャーが参入、彼らが中国による香港への直接的な影響力行使に危惧を表明し始めたことだ。

 中でも15歳の高校生、黄之鋒くんがクラスメートと結成した「学民思潮」は昨年5月の国民教育カリキュラム導入の市民諮問時に創設されて1年以上活動経験を蓄え、その間に「学民思潮」のメンバーは300人以上に膨れ上がった。幼いころからキリスト教徒の両親に連れられて天安門事件記念集会に参加したり、独居老人の慰問をしていたという黄くんは今回、国民教育カリキュラム推進派の現役教師、政府関係者、議員を前に見事な弁舌をふるい、あっという間に「反国民教育」キャンペーンのリーダーとなった。

「政府の機関である教育局が資金を出して、このような共産党賛美の教材を作るのは間違っている」「アンケートで『胸を張って教えられる』と答えた教師がわずか3%。そんなカリキュラムを政府は強制すべきではない」「政府はメディア同席の場でぼくら学生の声を聞くべきだ。こそこそ面会してあとで遺恨とならないように」と言う黄くんの論はそのままキャンペーンのスローガンになった。テレビの公開討論では彼の言葉にキレた教師がテーブルを叩いて反論する様子が、市民の失笑を買った。

 これまで政治を前にあきらめることに慣れきってきた、あるいはあまり粘り強かったとはいえない香港市民がこの夏、この「国民教育」カリキュラム反対を唱え続けることができたのは、間違いなくこの社会運動キッズ、黄之鋒くんと彼の率いる「学民思潮」のメンバーたちが夏休みを利用して毎日街頭に立ち、反対活動を続けてきたからだ。

 黄くんは言う。「『キミこそが香港の希望だ。香港の未来はキミに任せた』と言われるけれど、ぼくは英雄じゃないし、なりたいとも思わない。ぼくは民主を推進する大衆の中の一人の高校生でしかない。ぼくが期待しているのはぼくの存在がもっともっと多くの人たちに刺激を与えて彼らが社会のために一本踏み出してくれることだ」

 中国共産党党員が執筆したことが明らかになったマニュアル「中国模式」を使った「国民教育」は、まさにこんな黄クンたちに牙をたてようとしているのである。4年後の立法評議会選挙も黄くんはまだ有権者年齢(20歳)には達していないが、彼に触発された90年代生まれが次々と大人になっていくのは間違いない。

「国民教育」導入政策は撤回されたわけではない。黄くんと彼が率いる「学民思潮」は一旦政府庁舎前での抗議活動を引き上げたものの、新たに「政府関係者がメディアに公開された場で我々市民と話し合うこと、そして国民教育政策の全面撤回を求めていく。絶対に譲歩はしない」と声明を発表している。

 ここ数年高まっている香港の若者たちの「香港価値観」。これが今後いかに香港の政局に影響を与え、香港を手中に収めて世界に誇示したい中国にインパクトを与えていくか。今回の「反国民教育」キャンペーンはインターネットを通じて、中国国内にも事細かに伝わっている。これが中国の民主活動にも影響を与えていくのか、中国で唯一、立法機関に直接選挙制度が導入されている都市、香港の今後を見守っていく価値はあるだろう。

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