啓東デモから日本企業が学ぶべきこと

2012年8月10日(金)17時54分
ふるまい よしこ

 7月28日に江蘇省南通市にある啓東市で起こったデモ(以下、啓東デモ)は、今後中国に進出する企業、特に工場拠点を構えるつもりの企業は中国の現状をきちんと理解しておくべきことを示す、非常にリマーカブルな事件だ。この事件を「反日」や「官製」、さらには「民主化要求デモ」で括ってしまわず、きちんと分析して判断、蓄積しなければ、日本企業は王子製紙だけではなく、今後中国に進出した際に同じような事件に直面するだろう。

 今回の事件を簡単に総括するならば、「中国の市民が自分たちの生活を守るために声をあげた事件」だった。この点をはき違えてはならない。「反日デモ」でも「官製デモ」でも、さらにはいわゆる中国共産党の政治に反対するような「民主化要求デモ」でもなく、彼らは自分たちの生活を守るためだけに立ち上がったのだった。

 王子製紙が江蘇省南通市経済技術開発区(以下、南通開発区)に開設した工場(以下、南通王子工場)はすでに2010年に操業を始めている。今回問題にされた排水管工事もそれに合わせて完成するはずだったものが明らかに遅れており、施工主の南通開発区がやっと建設を急ぎ始めたときに今回の反対デモが起こった。

 日本メディアの報道によると、この排水管工事計画は南通王子工場の建設が国の認可を受ける際に、国家環境保護総局が前提条件としたものだったという。長江に面した南通開発区にはすでに日本や韓国など多くの工場が誘致されて進出しており、1日あたり10万トンレベルの汚水処理工場が設けられているが、一説には同地区にある工場の総排水量はこの処理能力を上回っており、現時点で長江にはかなりの汚水が流れ込んでいるといわれている。

 その長江の下流には上海があり、上海はやはり長江を水源としている。つまり、このまま同開発区の工場が増加し、排水を続ければ大都市、上海への打撃ははかりしれない。中国中央政府はここ数年、各地で激増する公害問題に頭を痛めており、国家環境保護総局が環境保全のためにかなり厳しい基準を定め、新規参入者に対しても厳しく順守するよう求めている。そのために南通王子工場建設が「長江以外の排水」を前提にした上で国の認可を受け、南通開発区側がその排水管工事を負担し、王子製紙の南通開発区進出が決断されただろうことは想像に難くない。

 かつての中国進出であればこれでよかった。あとは現地政府に任せておけば何とかしてくれる。企業は生産に集中すればよかったはずだ。それが中国式のやり方だった。

 だが、中国ではここ数年、市民の社会環境への意識がどんどん高まっている。もっとも大きいのがインターネットを経た情報の流通で、他地区で起こった事件があっという間に伝わるようになった。たとえ年長の漁民や農民が自身は直接ネットに触れたことがなくても、その町にネットを使う人がいれば自分の港や村で起こったことだけではなく、遠く離れた地域で起こった事件が簡単に伝聞するようになった。

 今回のデモでも90年代生まれの若者たちの姿が目立って多かった。彼らはネットで得た情報を次々と街へ流し、公害問題への注意を喚起し、抗議活動を呼びかける重要な役目を負ったのだ。

 南通王子工場から排水が約90キロの排水管で運ばれて海に流されることになった啓東市は黄海に面しており、そこは中国四大漁場の一つだ。もちろん漁業は市の最大の伝統産業である。漁業の街の市民にとって自分だちに直接の経済効果を生むわけでもない、遠く離れた工場の排水を受け入れることができるわけがない。当然、排水管工事計画を知らされた住民の不安と不満は、多少の経済的代価と引き換えにそれを市民たちになんの説明もなく受け入れた啓東市政府に向いた。

 実のところ中国ではこのところこういった住民たちの「生存権」をかけた事件が続発している。それはあまり日本では報道されず、あるいは報道されてもほとんどの人が記憶に留めていないだろうが、政府の統計でも「群体性事件」と呼ばれる、特定、あるいは不特定多数の人たちが集まって起きた事件は年間9万件を超えるとされる。そこにはデモだけではなく、暴動や騒動、ケンカや抗議活動、賃金値上げ行動、さらには請願活動などが含まれるが、基本的に現地の公安が出動した事件が数えられている。

 その中には、政府主導の不動産開発計画で自宅を強制的に取り壊されたり、あるいは農地を奪われたりした人たちが行き場をなくして政府機関、あるいは関係者を襲撃したり、あげくには衆人環視の中で焼身自殺したりという激しい事件まで起きている。つまり、追い詰められた人たちが「窮鼠、猫を噛む」と言わんばかりの行動が多く起こっているのである。それからすれば、啓東のデモ隊が政府ビルに突入したこともそれほど不思議ではない。

 啓東デモも漁場を奪われれば生活ができなくなってしまうという市民の「叫び」だった。だが、一方で沿道の日本車や日本料理店が襲撃されたという報告はなく、05年に車やビデオ、カメラ、料理店など「日本」に関わる多くのものが破壊された反日デモとは様相が全く違う。つまり人々のターゲットは明らかに「日本」ではなく、自分たちの漁場を守ろうとしなかった政府だったのだ。

 さらに「官製デモ」に至ってはまるで根拠がわからない。官製ならばまず政府による意図的な情宣が行われる。たとえば1999年にNATOによるユーゴスラビア中国大使館攻撃で死者が出た時のメディアはアメリカ批判一辺倒で、煽られた学生たちは米国大使館を目指した。実際にデモに参加した友人は「明らかに公安関係者とみられる角刈りの屈強な男たちが、路面のれんがをはがして大使館に投げつけるのを見た」と言っていた。また、05年の反日デモでもやはりまず先にメディアが手を変え品を変え、さみだれ式に日本批判を続けた。

 しかし、啓東デモにはその前提となる日本批判連発報道はなかった。そして逆に今ではデモに関して報道規制すら敷かれている。それに政府ビルが襲撃されるなんて、デモが「官製」ならばありえない話だ。

 つまり、これを単純に「反日」や「官製」と結びつけてしまえば、一時的に気分は楽になるかもしれないが、この事件がなぜ起こったのか、また市民が実際に何を求めていたのかを見誤ってしまう。反日デモなら企業を首をすくめて不安がっているしかないかもしれないが、それが公害への不安なら企業側が取るべきことはたくさんあるはずだ。

 啓東市の漁場は工事中止決定で今回難を逃れた。だが、中国のネットでは「きちんとした処理能力のためにコストを払う大型企業を攻撃しても意味はない。問題は垂れ流しを続ける中小企業だ」という声、さらに「啓東市の排水管工事を中止しても、南通王子工場は排水する。どこへ?」、「南通では王子工場以外に多くの企業が排水を長江に流し続けている」という声が上がっている。

 満を持して中国に進出する企業、工場を誘致して増収につなげたい地方政府、そして経済成長だけではなく環境破壊に頭を痛める中央政府。そこにはそれぞれの損得勘定が絡まっていて、そこに中国「リスク」がある。利益に駆られた現地政府は企業にとって現地の中国人をも代表する「窓口」かもしれないが忘れないでほしい、中国の政府は企業進出に当たって市民の声を聞くという習慣はない。一方で、今まで企業がまったく考慮に(視野に?)入れていなかっただろう市民たちが、大きな発言権と行動力を行使するようになってきているのだ。

 ここで今回のデモが「民主化要求デモ」ですらなかった点も重要だ。啓東の人々は自分たちの漁場が守られればそれでよかった。だが、中国ではこのところ、居住環境に影響を与えるような工場や都市改造計画の決定やその過程を透明化するよう、政府に求める市民デモも珍しくなくなっている。つまり、彼らは経済効果で結びついただけの企業と政府の契約書にノーを突きつけて、企業が最初に描いた計画をご破算にする可能性もはらんでいるのだ。

 それを回避するためには、これから企業も住民に向かい合う必要が出てくるだろう。具体的には住民が求める情報の公開、あるいはそれを経たうえでの説得作業などのコミュニケーションが求められる。わたしも今回の事件における日本の王子製紙が、日本が経てきた手痛い公害事件の経験を積み、世界に誇るエコロジーな排水浄化処理技術を有していることを望んでいる。だが、それを住民にきちんと客観的に示せなければ、事態の発展を見守っている我われも納得することはできない。王子製紙が中国語ホームページに掲載しているような「決められた規定にそって処理している」という文字では、具体的に市民の疑問には答えているとはいえないだろう。

「中国リスク」といえばおどろおどろしく聞こえるかもしれないだろうが、工場であれば現地住民に対する情報提示はどこでも広報業務の一つとしてやっているはずだ。今、日本企業がやるべきことはものごとを「反日」で矮小化し、首をすくめて隠れることではない。今後いかに中国でも、そして中国の良質なメディアと手を組んでどうどうと広報を展開するか、それをきちんと考えていくべき時代に入っているのだ。

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