佐藤政権チームの日々の取り組みは政権を長期化させ、学園紛争に見舞われながらも沖縄復帰の日は近づき、文化大革命後の中国との関係回復も視野に入っていく。その中でベトナム戦争は深刻な影を落とした。
国力低下と社会の分断に揺らぐ米国は日本への寛容な眼差しを急速に失い、相応の役割を時に苛立ちながら求めていく。戦後からの時代の変化に佐藤首相は驚きを隠せない。
著者が整理公開した楠田資料、そして研究会という「知のサロン」の恩恵を受けて、筆者は『佐藤栄作──戦後日本の政治指導者』(中公新書、2019年)をまとめた。
日米繊維紛争は密約の有無に注目が集まるが、米国外交の行政手法の問題であるとともに、佐藤にとって米国の繊維産業を追い越す日本もいずれ追い越されていくことが自明である中で、いずれの国にとっても望ましい国際ルールを希求する内外の軋轢であった。
それは「開かれた国益」の追及であり、米国、日本、そして多くの新興国にとっても長期的利益となる。
佐藤政権が70年安保を乗り越え、大阪万博が成功裡に閉幕した1970年代初頭は世界的な転換期であった。福田赳夫外相の肝いりで「精神においては民間の英知を結集する」国際交流基金が発足する(257頁)。求められるのは「民」の力であり、「シビル・ソサエティ」の発展である。
楠田はかねて福田と縁が深く、佐藤も先に福田をと考えていたが、田中角栄に破れ1972年7月にチームは解散した。楠田は佐藤政権でのブレーン・トラストを、「このシンク・タンクは公的な組織でないだけに、かえって人を集めやすく、ひじょうに精強なチームとなった」と記した(275頁)。
その後、楠田は総選挙に出馬して落選、再び「匿名への情熱」に徹していく。福田を首相にし、支えるための「Fオペ」を始動させ、政治の理念を紡いだ。
しかし再び挫折を経験する。福田は2期目を待たずに退陣に追い込まれ、楠田の2度目の首相秘書官就任はならなかった。その後も安倍晋太郎を首相にするための「Aオペ」に奔走し、竹下登に協力を求められれば派閥を超えて自民党政治の「開かれた国益」追求を支えた。
