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日本文化

『SHOGUN 将軍』以前の「サムライ像」は世界でどう形成されたか?...戦国時代から現代までのサムライ文化の需要の変遷

2025年12月24日(水)11時05分
フレデリック・クレインス(国際日本文化研究センター副所長・教授)

初期接触とステレオタイプの形成

戦国期の16世紀、ヨーロッパ人が初めて日本を訪れたとき、彼らが目にしたのは内戦の真っ只中にある社会だった。ポルトガル商人に続いて日本にやってきたイエズス会の宣教師たちは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の時代、すなわち武力と政治的策略が領国や一族の命運を左右していた時代を目の当たりにすることになる。

こうした初期の目撃者たちは、ローマへ送った書簡を通じて、後に集成・出版されることになる詳細な報告を残し、日本の武士文化に関する最初の体系的な情報をヨーロッパの読者に伝えた。

イエズス会士たちが特に衝撃を受けたのは、日本の武士が死を恐れず、複雑に発達した名誉の掟を守っているように見えたことだ。彼らの報告は、自らの文化的背景や宣教という目的に影響され、ヨーロッパの読者にとって最も異質で異国風なものとしてのサムライの行動様式を際立たせるものであった。

切腹の風習、複雑な階層構造を持つ忠誠心、美化された戦の作法などがすべて詳細に描写された。このイメージを引き継いで、日本は中世の騎士道的理念が息づいていたかのような国として認識されるようになった。

このような初期のイメージが根強く残ることになったのは、その後200年以上にわたり外部との接触がほとんどなかったためだ。江戸時代の鎖国政策の下では、ヨーロッパに届く日本の新情報は少なくなり、こうした初期の記録がそのまま固定概念として定着した。

19世紀中頃に西洋との交流が再開されると、来訪者たちは古い記録に基づく期待を抱いて日本にやってきたため、サムライに対して同じ観察と確認を繰り返し、先入観が強まるという循環構造が生まれた。

また、幕末から明治初期にかけて撮影された写真によって、こうしたイメージはよりいっそう定着していくことになる。ヨーロッパで受けの良い題材を求めていた欧米の写真家たちは、芸者や甲冑姿のサムライ(実際には一般人に甲冑を着せて撮影したもの)を集中的に撮影した。

こうした写真はヨーロッパやアメリカで広く流通し、異国性や演出的要素を前面に押し出した視覚的イメージの体系が形作られていった。サムライは時の流れに取り残された存在として捉えられ、西洋の産業的近代性とは対照的な、名誉と伝統の消えゆく世界の象徴となった。

新渡戸稲造の『武士道』とルース・ベネディクトの『菊と刀』

こうした印象が積み重なった中で登場したのが、新渡戸稲造の代表作『武士道』(1899年)だ。

新渡戸は武士道の原則を義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己として列挙し、体系化した。これは西洋の読者が、首尾一貫した名誉の掟に従う日本の武士像を理解する上で、初の包括的な枠組みとなった。だが、この一見明確な説明の背後には、はるかに入り組んだ文化の翻訳と解釈の営みが潜んでいた。

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