さらに、遡ると、1936年に哲学者の戸坂潤が、最も優れたアカデミック・ジャーナリズムが「帰着」するのが、「漱石文化」であり、「漱石文化に立つ岩波ジャーナリズムは、それ自身アカデミックなものだ」と述べていた(『戸坂潤全集第五巻』1967年、勁草書房)。
漱石文化と言うと話が飛躍してそうだが、どうも、アカデミシャンがジャーナリスト的(岩波を舞台に)行動をすることが、戦前、戦後の一定期間、アカデミック・ジャーナリズムと見られていたようだ。
かつての意味からすると、現在のアカデミック・ジャーナリズムの定義は随分幅広に事象を包摂し、「科学」的な分析を経て、明確になり、「思想」的でもある。
次に、新聞記者としての私の仕事の中で、アカデミック・ジャーナリズムと呼べるような仕事は何かあるだろうかと考えてみると、「裏付け」という作業がそれにあたるのでは思った。
裏付けとは何か。例えば、ある事実を書くために、関係者の証言や回想を用いることがある。その際、その証言や回想は裏付けが取れない限り、事実とは言えない。だから、裏付けのための作業は出来うる限り、徹底的にする。
映画監督の岡本喜八は太平洋戦争末期、愛知県豊橋市の豊橋陸軍予備士官学校で米軍機から爆撃を受け、そこで大勢の仲間を失ったとドキュメンタリー番組や自著、雑誌に掲載されたエッセイで証言していた。それが後年、喜八が戦争をテーマにした作品を撮るようになった動機だと、映画史などでは解釈されている。
だが、『おかしゅうて、やがてかなしき 映画監督・岡本喜八と戦中派の肖像』を書くために調べているうちに、喜八が語る死者数は30人近いものから10人くらいまでと幅が大きく、そもそも喜八の証言以外でこの体験が確かめられていないことが分かった。喜八が全39作品のうち半数近くで戦争を描いた動機がこの体験ならば、調べねばならないだろうと裏付けを行った。
豊橋に行き、郷土史家が当時付けていた日記を読み、消防記録にあたり、その場に居合わせた仲間や上官を探し、その手記などを用いて、数の特定を試みた。
それらの調査の結果、まず爆撃自体は事実だと分かった。その上で、数については生存者の数を死者数として書いているのではないかと結論付けた。
しかし、私の最終的な目的は、喜八の証言が事実かどうかを裏付けることにあるのではない。事実でないことを事実のように書いた心象、つまりこの場合、なぜ生存者数と死者数を入れ替えたのかということに関心は傾斜する。