クルド民族運動指導者タラバーニの死

2017年10月6日(金)15時45分
酒井啓子

<クルド人の民族運動を長らくひきいてきた愛国連盟のタラバーニ氏が死去した。クルドの二大政党は歴史的に、アメリカやイラク政府との駆け引きのために対立と共闘を繰り返してきた>

10月3日、イラクのクルド民族運動を長く牽引してきたジャラール・タラバーニ氏が逝去した。83歳。十年前に心臓を患って以降治療が続けられてきたが、5年前に脳卒中を起こしてからは、いつまで持つかと言われてきた。

イラク戦争後、新たに制定された憲法のもとで初めてイラクの大統領となったのが、タラバーニだった。同じクルド民族運動の雄、マスウード・バルザーニ率いるクルディスタン民主党(KDP)と並んで、クルド政界を二分してきたクルディスタン愛国連盟(PUK)の創立者であり、死ぬまで指導的地位にいた。それゆえに、欧米の追悼の記事には「イラク統一に欠かせない政治家」、「中央政府とクルドの仲介役として惜しまれる死」といった表現が並ぶ。

クルド独立の可否を問う住民投票を実施した9月25日以来、イラク・クルディスタンを取り巻く苦境を考えれば、「タラバーニのような柔軟性と人脈が今ここにあれば」と思う気持ちもわからないでもない。イラク中央政府や周辺国はもちろん、アメリカや国連すらも反対した住民投票は、投票率72%強、独立への賛成票が93%弱という、圧倒的に「独立」への賛意を表す結果となった。

クルディスタンの空港への国際便乗り入れ禁止に始まり、クルディスタンへの包囲網は厳しくなる一方だが、投票に沸き立つクルド住民の姿を見れば、クルドの指導者たちも簡単には譲歩できない。住民投票に反対していたPUKの影響力がもう少し大きければ状況は違っていたかも、とも思えてくる。

だが、イラク・クルドの歴史を振り返れば、タラバーニとバルザーニという二大巨頭体制自体がクルディスタンの不幸な政治展開の背景にあったともいえよう。

タラバーニとバルザーニは両者ともに、40年代後半から活動を蠢動させていたKDPにその出発点を置く。KDPは、イラクが共和政となった1958年に、現クルディスタン自治政府大統領のマスウード・バルザーニの父でクルド独立運動の英雄、ムッラー・ムスタファ・バルザーニを党首として、正式に党活動を開始した。ムッラー・ムスタファは、第二次世界大戦直後にイランで成立した初めてのクルド人の国、マハーバード共和国を支えたカリスマ的存在で、1947年にマハーバード共和国が崩壊した後は、ソ連に亡命していたのである。

だが、ムッラー・ムスタファがイラクへの帰国を許されるまでのイラクのクルド民族運動は、KDPの左派活動家たちによって支えられてきた。50年代、KDPの事務局長を務めたのはイブラヒーム・アフマドという法律家だったが、その娘と結婚して義父の右腕になったのが、ジャラール・タラバーニであった。

ムッラー・ムスタファはバルザーニ一族を率いる封建的指導者で、その部族的カリスマ性でKDPを引っ張っていったが、反対にイブラヒーム・アフマドとタラバーニに代表される左派系のKDP政治局メンバーは、都市知識人の支持を集め、バルザーニの前近代性、封建性には反感を抱いていた。後者は1975年にKDPから分派してPUKを設立したが、対立の種はKDP設立時からすでに埋められていたのである。

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