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ノーベル賞

それでも中国はノーベル賞受賞を喜ばない

2015年12月4日(金)11時05分
譚璐美(作家、慶應義塾大学文学部訪問教授)

 中国「財新網」(2015年10月5日付)によれば、屠氏は2011年、すでに「アルテミシニン」を発見した功績で「グラクソ・スミスクライン(GSK)賞」を受賞し、その1カ月後には医学賞のラスカー賞も受賞している。だが中国ではほとんど無名に近い存在で、博士号も海外留学の経験ももたず、中国の科学者として最高栄誉の称号「院士」の資格も得ていない「三無科学者」である。

 関係者の分析によれば、彼女がこれまで「院士」に選出されなかった理由は、彼女の社交下手と独善的な性格が災いしているという。また彼女の功績を疑問視する理由としては、もともとマラリアの特効薬の研究開発は、1967年に中国の国家プロジェクトとして始まったものだからだ。当時はベトナム戦争のさなかで、ベトナム国境へ派遣する兵士のマラリア予防対策が急務であり、「523工程」と命名されたプロジェクトには60の研究機関と500余名の研究者が参加した。屠氏は当時まだ実習研究員(実習生)だった。それゆえ、特効薬の発見を彼女ひとりの功績として認めるわけにはいかないと考えるのである。

 確かに、1967年といえば中国では文化大革命の真っただ中であり、政治闘争によって社会全体が大混乱に陥り、その犠牲者は5000万人とも1億人ともいわれている。だから国家プロジェクトでもなければ、研究者はとても研究などしていられる状況ではなかったはずである。

 しかし、米国立衛生研究所(NIH)の調査によれば、屠氏は多くの研究者の中でただひとり、晋代の医師・葛洪(紀元前283年~343年)の書『肘後備急方』の処方箋にヒントを得て独自の実験手法を思いつき、「アルテミシニン」の抽出に成功したという。つまり、多くの研究者が考え付かない方法で成功したのだから、彼女の知性と努力と研鑽の賜物だということなのである。

 その一方、中国では「漢方医学の素晴らしさが証明された」と自画自賛する声も上がっている。だがノーベル賞委員会の選考委員のひとりは、はっきりと釘を刺した。「肝心なことだが、我々は中国の伝統医薬にノーベル賞を贈ろうとするのではない。あくまで伝統医薬にヒントを得て、全世界で幅広く使える新薬を発見した人に贈るのである」

 ところで、ノーベル賞の創設以来、受賞を辞退したのはたったひとり、実存主義を唱えて「哲学の父」と呼ばれたフランス人作家のジャン・ポール・サルトルだが、彼は1964年にノーベル文学賞を辞退した際、フランス国民に向かってこう述べた。

「私がノーベル文学賞を辞退したのは、自分が死ぬ前に神聖化されることを望まないからです。......もしノーベル文学賞が私を名誉の絶頂に押し上げてしまったら、私は自分が現在取り組んでいる事柄を遂行し完成させる自由を失い、新たな行動や挑戦もできなくなってしまいます。ノーベル文学賞を受賞した後は、すべてが回顧的な価値となってしまうからです。栄誉を得て堕落する作家と、栄誉はないが常に一歩ずつ前進する作家と、どちらが真の栄誉に値するでしょう。......人間は、その人が成し得たことこそ、真の価値であるのです」

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