コラム

アメリカの「タイガーマザー」論争は日本の教育論議の参考になるのか?

2011年02月21日(月)10時42分

 今年のはじめから、「タイガーマザー」という言葉がアメリカでの流行語になっています。その発端は、イエール大学法科大学院の先生をしているエミイ・チュア(蔡美児)女史の自伝的エッセイ "Battle Hymn of the Tiger Mother"(「タイガーマザーの闘争賛歌」とでも訳しておきましょうか)がベストセラーになったあたりからです。反復訓練で何とかなる知的能力のトレーニングを最優先に、母親が鬼になって子供を躾けるべきという内容で、アジアでは取り立てて驚くような思想ではないのですが、内容が極端なので大変な話題になっているのです。

 内容は確かに過激で、具体的には(1)スリープオーバー(誕生パーティーなどでの友人宅でのお泊り)の禁止、(2)プレイデート(友人宅を訪問して一緒に遊ぶ)の禁止、(3)全ての主要教科でトップを取らせる、(4)バイオリンとピアノを毎日3時間練習、他の楽器は一切禁止・・・というような調子でかなり徹底したものです。学校主催の演劇プロジェクトへの参加を禁止し、その理由を質問するのも禁止というあたりは、法学者らしく「アメリカ的常識」への挑戦意欲満々であり、中国風の赤い「角印」をボーンと押したような本の装丁共々「炎上させるならどうぞ」的な挑発すら感じられます。

 丁度今年の1月は胡錦涛来米があり、アメリカでは「タイガーマザー」が子供をロボットのように訓練しているチャイナに負けては大変だというムードが出たり、この本に対する批判も盛り上がるなど大変な騒ぎになりました。批判と言っても「児童虐待である」とか「プレシャーを与えなくても出来る子は出来る」というようなものは恐らくは蔡女史の「想定内」と思いますが、中には「殺人予告」まで来たというのですから穏やかではありません。

 というのは蔡女史が娘たちの「母の日カード」が手抜きだったといって受け取りを拒否したとか、子供たちを躾ける際に「ゴミ」呼ばわりしたとかいうエピソードは、「子供はほめて育てる」というアメリカ的価値観への挑戦と受け止められたからです。蔡女史はこれに対しては「西洋風(ウェスタン)の教育は子どもの自尊感情を壊すのを恐れるあまりに、子どもが敗北していくのを黙って見過ごし結果的に子どもをダメにしているんです」と真正面から反撃しています。

 ただ、私はこの「放任」か「タイガー」かという論争にはあまり興味はありません。この論争に関して言えば、現代の社会が要求している基礎能力に関して言えば、言語にしても数量や論理にしても「思春期以前のメカニカルな訓練」を要求するものだというのは間違いない一方で、必要な基礎能力において、そうした訓練は必要条件であっても十分条件ではないからです。

 異文化間での調整能力とか、フレキシブルなリスク分散の知恵とか、経済合理性と環境や文化多元性などの折り合いとか、一直線の価値観での勝ち負けの延長では「勝てない」話がゴロゴロあるのが現代社会です。そこで問われるのは情報収集と処理の能力に加えて軸となる価値観を持ち、しかもそれを批判する別の価値観とのマトリックスで一種アナログ的とも言える膨大な判断を下しつつ、走りながらそれを修正する能力・・・あんまりシャープな定義ではありませんが、とにかく「タイガーに従順だっただけの優等生」では通用しないのは確かです。

 つまり「タイガー」的なアプローチが有効なのは、社会が中ぐらいの付加価値を大量生産している段階であって、仮に中国がタイガー式を徹底してゆくにしても、それでは成長には限界が来るのは目に見えています。では「タイガー」はダメなのかというと、簡単には言えません。思春期以前の段階にメカニカルに叩き込んでおくべきスキルは、先進国であっても益々もって「必要条件」になっているのは確かだからです。蔡女史の主張がアメリカで一刀両断に切り捨てられるのではなく、大論争を呼んだというのはアメリカの社会がこの「必要条件」に真剣に気付き始めていることの証拠でしょう。

 では、日本の場合はどうなのでしょう? 日本は中国とは違って、1980年頃から中付加価値の単純大量生産社会から、「中の上」付加価値創造を模索する社会に入っています。欧米製品の模倣ではなく、使用感や品質のスタンダードを自ら創りだす社会に入ったわけです。ではどうしてこれが可能になったのでしょう? それは高度成長期の「タイガー的」な公教育や家庭教育に「奇跡的な抜け穴」があったからだと思います。

 高度成長から2回の石油危機を乗り越えるあたりの日本の教育は、確かにタイガー的でしたが、蔡女史の説くほどには徹底せず、2つの「抜け穴」があったのです。1つは「エリート層に自由度を与える」という「抜け穴」です。理系はともかく、特に文系の場合は受験勉強から大学学部レベルに至るまで「抽象論の組み立て能力は教えない」とか「時代の最先端の知識は教えない」という組織的な手抜きを行って、後は本人の勝手にさせたのです。もう1つの抜け穴は「タイガー的な強制を10代後半まで引っ張った」ということです。いわゆる校則の束縛とか、受験のためだけの勉強など「不自然なまでに目的を問わせない」プレッシャーをかけたのでした。

 その結果として、日本では「強制された訓練を受けた高度な基礎能力」があるにも関わらず「原理原則や美意識については教育を反面教師として自発的に鍛えた」人口が膨大な規模で育ったのです。基礎能力は強制されて獲得し、最先端の内容や原則論は自発的に習得した結果、読み書きソロバンはできるが感性は若々しい反骨精神を維持したこの集団が、企業内であるいは創造の現場で才能を開花させていきました。ハイテク製品からサブカルチャーまで、今「クールジャパン」と言われて何らかの競争力を保っているものは全てそうだと思います。

 しかしながら、その成功体験は過去のものになりました。今、日本の教育が直面しているのは「現代社会の要求する複雑な能力を訓練する」などという贅沢な話ではなく、「訓練への強制力が減ったためにメカニカルな基礎能力が減退した」一方で「社会の束縛が緩んだために反骨バネを鍛える機会も減った」という問題です。

 この問題も大変なのですが、その一方で、更なる成長を目指すには「中の上」ではなく「最先端」を目指さなくてはならないという課題も背負っています。特に「最先端」を目指すには十分なメカニカルな訓練を経つつ、「思春期の前半」あたりで自発的なモチベーションを持って以降「最先端」へ突っ走れるような人材の教育コースが必要です。日本がどうしても欧米に追いつけないまま下降曲線に入っているのはこの点が大きく、その悩みの深刻さと比べると「タイガーか放任か」などという論争はまだまだ甘いと言わざるを得ません。

プロフィール

冷泉彰彦

(れいぜい あきひこ)ニュージャージー州在住。作家・ジャーナリスト。プリンストン日本語学校高等部主任。1959年東京生まれ。東京大学文学部卒業。コロンビア大学大学院修士(日本語教授法)。福武書店(現ベネッセコーポレーション)勤務を経て93年に渡米。

最新刊『自動運転「戦場」ルポ ウーバー、グーグル、日本勢――クルマの近未来』(朝日新書)が7月13日に発売。近著に『アイビーリーグの入り方 アメリカ大学入試の知られざる実態と名門大学の合格基準』(CCCメディアハウス)など。メールマガジンJMM(村上龍編集長)で「FROM911、USAレポート」(www.jmm.co.jp/)を連載中。週刊メルマガ(有料)「冷泉彰彦のプリンストン通信」配信中。

ニュース速報

ワールド

中国、3月の全人代延期案を2月24日に討議 政協も

ワールド

マカオ、今月20日からカジノ営業再開へ

ビジネス

ソフトバンクG出資のOYO、19年3月通期は損失6

ビジネス

香港キャセイ航空、上期大幅減益を予想 新型肺炎によ

MAGAZINE

特集:新型肺炎 どこまで広がるのか

2020-2・18号(2/11発売)

感染者数がSARSを超えた新型コロナウイルス── 「起きるべくして起きた」中国発の感染症を止める処方箋

人気ランキング

  • 1

    韓国、キャッシュレス完了した国が進める「コインレス社会」

  • 2

    新型コロナウイルスはコウモリ由来? だとしても、悪いのは中国人の「ゲテモノ食い」ではない

  • 3

    新型コロナウイルス、人口2.6億のインドネシアで感染者ゼロの怪

  • 4

    インドネシア、巨大ヘビから妻救出した夫、ブタ丸呑み…

  • 5

    殺害した女性の「脳みそどんぶり」を食べた男を逮捕

  • 6

    中国の新型コロナウイルス危機は「チェルノブイリ級…

  • 7

    マクロンも羨む日本の定年引き上げ、フランスで「70…

  • 8

    新型コロナウイルス、初の死者で「信認低下」懸念 …

  • 9

    「10歳の娘が裸でも同じベッドで寝る彼氏」これって…

  • 10

    マスク姿のアジア人女性がニューヨークで暴行受ける

  • 1

    BTSと共演した韓国人気子役がYouTubeで炎上 虐待されたのは猫か少女か?

  • 2

    新型コロナウイルスはコウモリ由来? だとしても、悪いのは中国人の「ゲテモノ食い」ではない

  • 3

    韓国と中国の関係に影を落としはじめた新型コロナウイルス

  • 4

    マスク姿のアジア人女性がニューヨークで暴行受ける

  • 5

    今年の春節は史上最悪、でも新型肺炎で「転じて福」…

  • 6

    中国の新型コロナウイルス危機は「チェルノブイリ級…

  • 7

    「歯肉から毛が生えた」という女性の症例が世界で初…

  • 8

    「10歳の娘が裸でも同じベッドで寝る彼氏」これって…

  • 9

    韓国、キャッシュレス完了した国が進める「コインレ…

  • 10

    新型肺炎:1人の医師の死が引き起こす中国政治の地…

  • 1

    ゴーン逃亡のレバノンが無政府状態に、銀行も襲撃される

  • 2

    「歯肉から毛が生えた」という女性の症例が世界で初めて報告される

  • 3

    一党支配揺るがすか? 「武漢市長の会見」に中国庶民の怒り沸騰

  • 4

    ヒヒにさらわれ子どもにされた子ライオンの悲劇

  • 5

    マスク姿のアジア人女性がニューヨークで暴行受ける

  • 6

    韓国で強まる、日本の放射能汚染への懸念

  • 7

    新型コロナウイルスはコウモリ由来? だとしても、…

  • 8

    訪韓日本人数が訪日韓国人数を上回った ......その内…

  • 9

    「武漢はこの世の終末」 チャーター機乗れなかった米…

  • 10

    「拷問死したアメリカ人学生」がはばむ文在寅の五輪…

PICTURE POWER

レンズがとらえた地球のひと・すがた・みらい

英会話特集 グローバル人材を目指す Newsweek 日本版を読みながらグローバルトレンドを学ぶ
日本再発見 シーズン2
CCCメディアハウス求人情報
定期購読
期間限定、アップルNewsstandで30日間の無料トライアル実施中!
メールマガジン登録
CHALLENGING INNOVATOR
売り切れのないDigital版はこちら

MOOK

ニューズウィーク日本版別冊

絶賛発売中!