一方、フレデリック・クレインスの論考「サムライ文化の国際発信」は、外国人だけではなく日本の人々も多くの場合自己の表象として用いる「サムライ」について、いかにして史実に基づいた像を確立すべきかを説く。
高度に情報化が進み、時間や場所を選ばず情報を得られる現在においても、「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」という古典的ともいうべき日本への理解は残り続けている。むしろ、情報が多様化するからこそ、自分たちが抱きたい像を持ち続けているといえるかもしれない。
事情は日本の人たちも同じで、自らを「サムライ」、外国の人たちや企業などを「黒船」と呼称するような状況は、「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」という表現を裏側から照らし出しているだけにすぎない。
それだけに、クレインス論考が描き出す日本像の変遷は、「サムライ」そのものの像を直ちに変化させることは難しいものの、武士を取り巻く社会的、文化的な状況を丹念に検証し、情報として発信し続けることで漸進的ではあっても固定化された見方を解きほぐすために有効であることを明らかにしている。
あるいは、桑原ゆうの「日本音楽の本質とは」は、聞くという感覚に直接訴えかける音楽のあり方を通して、西洋の音楽と日本の音楽の対比や融合といった局面に留まらず、日本語の身体性という点へと至る、刺激に満ちた論考である。
自覚的であるか否かを問わず、言葉は話し手や話し手が属する集団の歴史と文化を含んでいる。そして、言語は話し手が養ってきた身体技法と相互に影響を与え合っている。
文化人類学者の川田順造が種々の論考で明らかにしたように、日本語は求心性を、印欧語系の諸言語が遠心性を備えていることは、「いってきます」が他所へゆくだけでなく出発点に帰ってくることを示唆する一方、同様の意味を持つ英語の 'I am going to somewhere'という表現がある場所へ行くことだけを示している点からも推察される。
こうした点を考えれば、音楽の中に身体性を見出す桑原の指摘は、旋律や調子、楽器の使い方といった表層的な観点から日本の音楽や西洋の音楽といった検討を行うことの危うさを明快に示していることが分かるのである。
これ以外にも、国際博覧会(橋爪紳也)、食(神崎宣武/村田吉弘)、あるいは華道(池坊専好+佐伯順子)などについての論文や対談を掲載するのが、特集「発信する日本文化」である。
