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中国唐代を代表する詩人の杜甫(とほ)に、戦争の苦しみをうたった「兵車行」という詩がある。そのなかに、つぎの句がある。
(男子を産めば戦死して雑草に埋もれてしまう。...昔から白骨を収容するひともなく、新しく死んだ者の魂はもだえうらみ、古くに死んだ者の魂は嘆き叫び...)
今年は戦後80年にあたる。日本がアジア各地に支配を拡大し、1941年に太平洋戦争がはじまると、中部太平洋のミクロネシア地域まで戦線を拡大した。戦争末期、日本軍に反攻する連合軍はフィリピンを奪還するために、ミンダナオ島の真東に位置するパラオ諸島に攻撃をさだめた。
パラオは元ドイツ領である。第一次大戦後に日本の委任統治となり、トラック諸島やサイパン島など、この地域を「南洋群島」、あるいは「内南洋」などとよんでいた。日本はパラオに南洋庁をおき、東洋一と称された飛行場をパラオのペリリュー島に建設した。
日本から3000キロメートルほど南に位置するパラオは、現在、人口2万人ほどの小さな国である。その人口の25パーセントほどが日系人といい、親日的な国である。青い空と白い雲、そしてサンゴ礁にかこまれた海はダイビングの世界的なメッカでもある。
このパラオ諸島に米軍が押し寄せてきたのは1944年9月。その防衛を、「満州」に配備されていた第一四師団麾下(きか)の水戸歩兵第二連隊、高崎歩兵第一五連隊、宇都宮歩兵第五九連隊、第一四師団戦車隊、海軍の西カロリン航空隊などが担うことになった。
ペリリュー島には第二連隊を中心に総計1万人ほどが守備していた。ペリリュー島のさらに南のアンガウル島は、第五九連隊の第一大隊を主力とする1200名たらずが守備していた。
この両島で日米軍が死闘を展開し、日本軍の守備隊はほぼ全滅した。ペリリュー島ではわずか34名の日本兵が洞窟に身を潜め、敗戦2年後になってようやく米軍に投降・帰順したのだった。
