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※【前編】世界から日本に帰還する美術、しづらい音楽、世界に溶け込む盆踊り...「二極的アイデンティティ」を超越する芸術の潜在力について から続く。
論壇誌『アステイオン』99号の特集「境界を往還する芸術家たち」をテーマに、1月に行われたエリス俊子氏(名古屋外国語大学教授)、長木誠司氏(東京大学名誉教授、音楽評論家)、三浦篤氏(大原美術館館長、東京大学名誉教授)とアステイオン編集委員の張競氏(明治大学教授)による座談会より。本編は後編。
張 芸術の越境について考えるときに私が強く意識しているのは、「芸術には国境がない」という言葉です。
この言葉が芸術の普遍性を表現していると思うのですが、しかし裏返して言えば、この言葉には西洋中心主義が潜んでいるようにも思います。この点について長木先生、いかがでしょうか。
長木 基本的に芸術がそれ単独で流入してくることはありませんよね。植民地化や帝国主義に伴って、まず教会が来て、その後、政治や軍隊が来る。そういう形でヨーロッパが世界を侵略していく中で、西洋音楽がいわゆる権力者の音楽として押しつけられてきたという点はありました。
ただ、日本の場合は押しつけではない。いわば自主的に明治政府が西洋音楽を選択したところがあり、これは一種の発信だったのではないでしょうか。同じように西洋音楽を受け入れた場所の中では、日本はやや特殊かなというふうに思います。
張 世界に複数の文化がある以上、文化の間にはどうしても権力構造が生じます。西洋の芸術、東洋の芸術というように特定の文化地域と結びつけたときに、やはり無意識のうちに我々は上下関係を見出してしまう傾向がありますよね。
長木 日本では年末に第九を演奏しますよね。これは日本の伝統なんですよ。実は、ヨーロッパにはそういう伝統はなく、日本では、諸説ありますが、1960年代ぐらいから始まっている。
でも、これを日本だけの伝統だったと思っていたら、近年、ウィーンでは年末に第九を演奏しているんです。これは要するに逆方向の文化の流れです。
つまり、文化の伝播は一方向だけと思われてきたし、帝国主義も押しつけられるものと考えられてきたけれども、まさに「還流」と呼べるような、お互いに発信し合う事例が見られるのが現代だとも言えます。
張 音楽にもある意味で「還流」があったと言えますね。近年の日本文化について、世界ではどのように受け入れられていると考えておられますか。
長木 絵画や音楽とは異なり、伝統的ではない日本文化ではありますが、漫画やアニメは日本のものとしてオリジナルな西洋文化に入っていっている。これらは、必ずしもルーツやオーセンティシティを考えない、あるいは考える必要がないということで、ポストコロニアルの時代の一種の戦略にもなっていると思います。
張 美術においては、日本からの発信や日本を参照することが重要だとされている分野はありますか、三浦先生。
三浦 今、フランスで日本の文化で正当に評価されているものの1つに建築があると思います。
例えば隈研吾さん、坂茂さん、妹島和世さんは、フランスでも大活躍されていて非常に評価が高い。漫画、アニメも大変評価が高いですよね。
ただし、ジャポニスムのように、エキゾチックな形で日本に向かうというスタンスではなくて、面白いから、刺激的だから評価され、取り入れられている。
張 エキゾチシズムやオリエンタリズムを超えて、芸術が正当に評価される世界になりつつあるということですね。いわば文化的な境界が消失しつつあるということでしょうか。
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