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坂本龍一がニューヨークを拠点にして活動していたように、音楽家のなかには国外に住まいながら創作活動、演奏活動に専念するひとは少なくない。
合衆国生まれの宇多田ヒカルがロンドンに拠点を持っているなどということにまったく違和感を持たないのは、グローバル化が進んだ21世紀の現在ゆえだろうが、坂本の世代以前にはたしてそうした、国外在住の日本人ポピュラー・ミュージック(とあえて言っておく)・アーティストがいたかどうか考えてみたとき、即座には具体的な名に思い至らないことも事実だろう。
なんと言っても英米圏を中心に最新モードが登場してくるポピュラー音楽界では、ロンドンやニューヨーク、そしてかつてとはがらりと変わって非常にアメリカ的になってきたベルリンに住むことが、ミュージシャンたちにとっても刺激と情報を得るには好都合であり、人的な交流がスムーズにいくことは容易に理解できる。
それは、ネット環境やメディアが発達した現在においても変わることがない。
翻って、「ポピュラー」ではない音楽の世界、すなわちシーリアス・ミュージック、あるいはもっと馴染みのあることばで言えばクラシック音楽の世界の日本人音楽家で、国外に住むひとの状況はどうなのだろう?
それは流行の先端を歩まねばならないポピュラーの世界とはだいぶ様相を異にすることだろうし、そもそも相手にしているのが「クラシック」であるかぎり、「最新の」情報や刺激がどれくらい必要とされるのかどうか、疑問に思う向きもあるだろう。
結論から言えば、それはぜひとも必要だ。というか、国外在住のクラシック音楽家という枠で考えるならば、作曲家よりも演奏家の方が圧倒的に多いわけであるが、彼・彼女らが活動の上でメインに取り組んでいるバロックから近代に到るまでの作品の演奏スタイルは、ここ50年、いや30年でがらりと変わってしまった。
その変成の速度はポピュラー・ミュージック界のスタイル変化にけっして負けていない。またそれは、ポピュラーのように売れる/売れない、流行る/流行らないを実質的な基準や尺度、大きな目標にする新しさとは関係なく生じたことなので、純粋に自律的な変化と言ってもよい。
もちろん消費社会下では、結果的に新しい演奏スタイルが、クラシック界でもその新味ゆえに耳新しく、人気も出て売れるということもあるので、その点で実際の現象だけ見れば両者間に歴然とした差異を見出すのはなかなか難しいのだが、変化を駆動する発端のモティヴェイションがかなり違うのは事実である。
vol.101
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