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歴史

氷河期世代が振り返る平成──「喪の作業」としての平成文明論

2022年08月29日(月)07時58分
酒井 信(明治大学国際日本学部准教授)

確かに政治の世界では平成期を通して「戦後日本の克服」が謳われたが、バブル経済の後始末の中で、新時代というよりも混乱の時代となり、IT革命の影響も相まって民意が流動化し、ポピュリズムが台頭した。

このような時代に寄り添う形で「模範演技を通じた感化という統治の技法」であった近代天皇制は、「感じのいいインフルエンサー」としての現代天皇制の性格を帯びていく。

経済の上での「平成史」の特徴は、大航海時代にヨーロッパ諸国が新大陸を発見して繁栄したように、日本が安い労働力を供給する中国を「再発見」することで、平成期の経済を維持してきたことにある。『中国化する日本』の著者らしい文明批評と言える。

国内に目を向ければ、団塊世代が、かつて学生運動を通して批判した「既成の秩序」の受益者となり、その子供たち(団塊ジュニア世代)が、就職氷河期や格差社会の中で受難者となったことも、この時代の経済的な特徴である。

文化の上での「平成史」の特徴は、平成元年に起きた宮崎勤事件が象徴的に物語っているように、「『成熟』のモデルを喪った子供たちの時代」となり、オタク文化が一般化し、クールジャパン化したことにある。

言論の上では「論座」「月刊現代」「諸君!」「新潮45」など中道寄りの論壇誌が次々と休刊したことで、「最初から味方にしか訴えない」言論が台頭してきた。

思想の上での「平成史」の特徴は、バラバラな物事を「構造」に還元して研究対象とするニュー・アカデミズムを継承した「子供っぽさ」にある。

例えば、ニュー・アカデミズムを代表する論客、浅田彰が依拠したフランスの哲学者ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』は、幼児性と資本主義社会の関係の深さについて考察した著作であった。

ドゥルーズ=ガタリは、ベケットの子供を題材とした実験的な短編や、アルトーの「器官なき身体」の演劇論や、フロイトの「口唇期」の発達段階論を参照し、目的を志向しない遊戯的なコミュニケーションに可能性を見出している。

このような思想のあり方は、バブル経済期だけではなく、ネット上の自由度の高い表現やコミュニケーションを肯定する平成期の風潮にも符合し、極端化する世論や、炎上やクレーム、キャンセル・カルチャー、マウンティングなど、「村社会的ないじめの変種」が台頭した時代の精神風土に溶け込んでいく。

ただ現実の世界に根差した生身の「私」を括弧に入れ、双数的に「私」と社会を地続きにとらえるポスト構造主義的な思想は、身体性が伴わず、具体的な問題に無責任であり、限界がある。

與那覇はこの限界を乗り越えるべく、「平成史」を理解するうえで重要な思想として、國分功一郎の『中動態の世界』を引きながら、意志による選択といえるほど主体的ではなく、強制されたというほど受動的でもない、「中動態を基礎とする人間観」を提示する。

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