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経済学

保険料は本当に会社が半分支払っているのか?──私たちの経済は「常識」と「非常識」でまわっている

2022年07月20日(水)07時56分
中空麻奈(BNPパリバ証券グローバルマーケット統括本部副会長)

宇南山卓が「『低所得者』は『経済的弱者』なのか?」で示したように「低所得者」は「経済的弱者」では必ずしもない、のは納得がいく。しかし、仮に同じ所得で毎日飲み歩いた結果散財した「キリギリス型」のAと、必死に貯蓄した「アリ型」のBがいたとしよう。

国として、結局Aを経済的弱者だとして助けることがあるとすれば、これは間違っていないだろうか。アリ型Bの努力を無視してキリギリス型Aに加担する政策は腹落ちし難い。

また、そもそも「価格」というものが謎めいていることも間違いない。金融市場にてマイナス金利が付いた日本国債ですら、売買が成立したという事実はそれを裏付ける。マイナス金利のついた日本国債とは元値より高いことを示すが、それでも買ってもらえるのは、提示された高値よりも更に高値で買ってくれる買い手がいれば、問題ないことを示す。

安田洋祐は、「高額転売の何が問題か?──『需要法則』からの接近」でオークションについて論じている。市場では不可思議なことが起きても、売り手と買い手がいれば市場は成立する。したがって、売り買いの成立には、適正価格より需給が大事だとすれば、高額転売を不当だと仮に締め上げたら意外と困ることが増えるのではないか。

さらに、選ばなければ全入できるくらい大学の数があるのに、日本のGDPは一向に上がらない。中室牧子は「しっかり稼げる大人にするには?──非認知能力の重要性」で興味深い研究を数多く紹介しているが、「非認知能力の開拓」に力がそそがれていないという観点以外に、日本の大学の価値低下が進み過ぎ、大学進学自体に価値がなくなっていることはどれくらい寄与するだろう。

大学卒業より、早くから自らの才能に気づいた異才が野球やバレエなどで成果をあげたり、修行を積んで寿司職人やパティシエになることの方に価値を置き始めている人が増えている気がするが、これは正しい方向性なのだろうか。

また、別所俊一郎が「法人税は『企業』が負担するものか?」、黒田祥子が「健康経営は業績向上につながるか?」で論じていたが、そもそも「法人税」、「社員の健康」、「個人の健康管理」のコストは結局だれが払うのが正当なのだろうか。

企業も医療制度も学校も家庭も無視し、すべて突き詰めて「個人と国」の構図だけに整理して政策が打たれるとすると、究極的には個人の能力や報酬、健康、子供の個性も含め国が管理することになりやしないか。

「ただより高いものはない」ということわざが示す通り、ただで得られるものは基本的にはない。ただし、具体的な誰かではなく、「会社支払い」や「国が支払う」場合はまわりまわって自分が払っている、とは誰も考えない。

考えてみれば、「会社払い」ということは、会社の付加価値を分けるすべての対象間で支払っているわけだし、国の支払いもその財源は税金(か、国債)によっている。一時的な支払い請求書が来ないことで安心している場合では本来ないのに、そこまで意識していない。それどころか、そういうサービスについては「ただ」で喜び、それどころか「ただ」でなければ受け入れられない、という判断に陥ってしまいかねない。

たとえば、法人税をゼロとし、すべての企業利益を役員も含めた従業員への支払いと配当に分配してしまう、と考えると、税金の支払いは個人に科される所得税と配当課税だけになる。当然、法人税の分をそれぞれに転嫁するだけだから、びっくりする徴税額になるに違いない。それを受け止められるだけの賃金上昇があれば問題はないかもしれないが、それはどれほどの額なのか、想像がつかない。

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