アステイオン

国際政治

ウクライナ史に登場した「ふたつのウクライナ」とは何か──ウクライナ・アイデンティティ(中)

2022年04月18日(月)15時05分
アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)※アステイオン81より転載

革命の帰結のひとつは、国家が地域で深く分裂しているというイメージがウクライナ国内にも国際的にも広がったことで、それは「ふたつのウクライナ」という定型句で表現された。

ふたつのウクライナという定型句(つまり、ナショナルな意識に目覚めたウクライナと、〔ロシアおよびソ連の影響が残った〕「混ざりものの」('creole')ウクライナであり、前者が好ましい規範とされる)は、政治的選択の範囲、あるいは所属集団の選択の動機を単純な図式に押し込めることになる。

そして、その図式では、規範とそこからの逸脱という二者択一の考えが生まれてしまうのである。

同時に、こういった考え方は国内の一部の人々に対する差別的含みがある。それは、1990年代半ばの知識人による幾つかの著作に端を発し、「ウクライナのウクライナ化」計画の失敗への反発と、失敗の全責任を政府、あるいはロシア・ソ連の伝統の強さに求めようとする意識の表れだった。

「深く分裂した国」というイメージは国内政治上の対立としてのみならず、地政学的対立、すなわち親ヨーロッパの西ウクライナと親ロシアの東ウクライナの衝突として提示された。

ユシチェンコ大統領も、当初は象徴をめぐる政策として、和解の促進、なかでも退役軍人の間での和解を促そうとした。

けれども、すぐに1932-1933年のソ連領ウクライナにおける人為的な飢饉をソ連の最大の犯罪で「ウクライナ民族の大量虐殺(訳注***)」とし、その何百万もの被害者の追悼を殊更強調することで、ナショナルな物語の伝播に精をだしてしまったのである。

ユーロマイダン運動とウクライナをめぐる戦争

1990年代初頭同様、オレンジ革命から間もなく、ウクライナは事態が目に見えて改善するという期待を失うことになった。

ユシチェンコは改革計画の提案に失敗し、2010年の大統領選挙では5.45%程度しか得票できなかった。そして、今度は2004年大統領選の主要な競争相手だったヴィクトル・ヤヌコーヴィチが大統領に選ばれた。

ヤヌコーヴィチ大統領はクチマの中道路線を採ろうとしたものの、そこからひどく逸脱し、「反ウクライナ的」政治家というイメージを生み出してしまった。彼はまたEUとロシアの両方にとってウクライナが地政学的に重要であることを利用しようとした。

そして、2013年秋、EUとの連合協定を予期せぬかたちで署名拒否し、その結果、再度大衆的抗議運動を招来することになったのである。

本稿では、抗議運動の年代記を描くつもりはない。むしろ、大衆による抗議運動の主要な特徴を強調したい。

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