アステイオン

未来

40年前、80年前、100年後

2020年02月05日(水)
吉田大作(中央公論新社学芸編集部長 「中公選書」編集長)

編集者にもいろいろなタイプがあるだろうが、僕の場合、自分の中にテーマはない。その時々で、面白そうな人に会い、そこで聞く話はだいたい面白いから企画につながる。ところがこの年末、別々の時期に依頼し、あるいは提案を受け、または版権を取った企画がたまたま同時に校正ゲラとなって目の前に現れて驚いた。すべて〈嘘〉についてのものだったのだ。国が『古事記』『日本書紀』に記述されたことは史実だと嘘をついた時の社会の反応。国にはもうお金がないのに、頑張れば見返りがありますと地方につく嘘。そして国と国のあいだに壁を立てなければ危険だという古来より人々を魅了してきた嘘――。

これは正しくは、自分が〈嘘〉に関心を持っているということではなく、世の中の関心が〈嘘〉に向かっていることの何らかの反映と見るべきなのであろう。

今、僕が最も強く思いたがっている〈嘘〉があるとすれば、これからも出版社というものがあって、編集という仕事があるということだろう。口では不安だとか言っているが、それを払拭するために果たして何ができるのか、まるでわからない。SNSで積極的に発信? 何を。電子書籍? 買ったこともない。たしかに会社の後輩たちに何を伝えるべきか、以前よりも迷うようになった。後輩たちのほうが賢明だろうという気持ちもある。しかし、それも嘘かもしれず、だとしたらかなり無責任だ。

100年後も人々は物語を書き、それらを読む人々がいるだろう。社会に対して発言し、それをよすがにする人々がいるだろう。積み重ねられた研究が時代の扉をひらき、新しいことを知る喜びがやむことはないだろう。心底そう思う。でも、ただでさえ日本語を読む人の数は減り始めている。取り敢えずは本が作られ、その中のいくつかが後世に選ばれ、あとは淘汰されていく。そんななかで結局は、僕は本を作り続けるしかない。ささやかな信条とともに。そして、環境に少しだけ抗いながら。ただ、100年と言わず、10年20年単位で、人々がそれらを読む形が現在からはまったく想像のできないものになることを覚悟しなければならない。小形道正さんが『アステイオン』91号の特集「可能性としての未来――100年後の日本」の中で、100年後には衣服が購入するモノからレンタルするモノへ「関わり方そのものが変化している」だろうと書いている。対象も形態も違うけれど、そういうことなのだと思う。

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