著者のヘルツォークは、戦後のふたつの時代を重視する。まず50年代半ばから60年代の初めにかけて、キリスト教の権威が復活し、社会は特に性に関して保守的な道徳観に支配されていった。性的放縦が大量虐殺を招いたという解釈から、保守的な性道徳を再建することが、ナチズムを克服する際の最優先事項となった。

道徳的な議論を大量虐殺の問題から切り離し、性に関わる狭い概念にすり替えることで、教会がナチズムに順応した事実は曖昧になり、国民がナチズムを支持した事実も覆い隠されていった。

これに対して、60年代後半から70年代にかけて、ニューレフトの反乱が起こり、性革命が社会を変えていく。その大きな原動力となったのは、以前取り上げた『顔のないヒトラーたち』の題材にもなったフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判だ。そこで裁かれたドイツ人たち、その抑圧され、因習的で、家族的価値観を志向しているというイメージが、ナチズムに対する解釈を反転させる。

大量虐殺は性の抑圧から生まれたものであり、性を解放することが反ファシストの義務であるという主張が広がっていく。今度は、ナチズムと性の抑圧が結びつけられ、その記憶が塗り替えられることになる。

ふたつの時代を象徴する二人

この映画は、そんな戦後の西ドイツにおけるナチズムと性の相互作用を踏まえてみると、より興味深いものになる。

トトは性的に抑圧されているが、抑圧と向き合うのではなく、普通を装うとしている。女優のルビンシュタインと対面し、家族のことをいろいろ尋ねられたトトは、彼女から「愛人なし、火遊びなし、子ども好き。つまらない男」と言われる。しかし、ただ平凡なのではない。彼は自分の事情で子供ができないため養子を迎え、妻には浮気を容認し、関係はほとんど破綻している。

一方、ザジは、妻帯者のバルタザールと関係を持っていることをトトにあっけらかんと打ち明ける。彼女はこれまでにもドイツ人の男とばかり付き合ってきた。しかし、性に対して奔放に見える彼女には闇があり、きわどい綱渡りを演じていることがやがて明らかになる。

トトとザジは、先述したふたつの時代をそれぞれに象徴しているようにも見える。そんなふたりは、自分の祖父や祖母が育った土地へと旅立ち、家族の過去と向き合いながら変貌を遂げる。彼らは、その旅を通して性の呪縛から解き放たれていく。

ナチズムやホロコーストと性を結びつけるクラウス監督の視点と表現は、決して単なる突飛な発想ではなく、そこにはドイツの戦後やナチズムの記憶について考えるヒントが埋め込まれている。

《参照/引用文献》

『セックスとナチズムの記憶――20世紀ドイツにおける性の政治化』ダグマー・ヘルツォーク 川越修・田野大輔・荻野美穂訳(岩波書店、2012年)

『ブルーム・オブ・イエスタディ』 公開: 9月30日(土)よりBunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー!