小説の『国宝』は、吉田修一の作品らしく、「人間国宝」となる歌舞伎役者の主人公をはじめ、映画監督や相撲取りなどあまり小説に描かれない職種の人間が登場することで、賑やかな作品に仕上がっている。
零落していく極道一家の人々と、映画やテレビが新たな娯楽となり、往時の人気を失っていく歌舞伎役者たちの人生を重ねながら、伝統芸能に身を捧げた役者たちとその同時代人たちの喜怒哀楽を写し取っている。
『国宝』という表題は「人間国宝」に由来するもので、歌舞伎や能、文楽などの重要無形文化財(伝統芸能等)の保持者として、文部科学省の文化審議会で認定された人物の通称である。
またこの作品は、近年の吉田修一の小説としては珍しく、長崎の実家近くの元遊郭街、丸山を起点としている。しばらく吉田は長崎の旧市街から距離を置いた、かつての「長崎南高校の校区」を描く傾向にあった。
たとえば『悪人』や『横道世之介』は長崎を舞台とした作品であるが、一般にほとんど知られていない長崎南部の町(深堀や蚊焼[かやき])を中心に据えている。
「破片」や「Water」など初期の作品における旧市街の描写は、『国宝』までしばらくなかった。デビューから20周年を迎えた『国宝』で、初期の作品以来、久しぶりに旧市街を舞台にすることで、創作の原点に回帰したと言える。
吉田作品の登場人物は創作されたもので、当然のことながら作者の生い立ちとは異なる。
だが、長崎の坂の街のやくざ一家を出て、時代を代表する女形となり、「人間国宝」に近付いていく喜久雄の姿は、芥川賞の選考委員となり、現代日本を代表する作家となった吉田修一の姿と二重映しに見える。