<生まれたときからエリート街道を歩む「モディの懐刀」、ジャイシャンカル外相の徹底的な強気外交>

全ては北京で始まった。

インドのナレンドラ・モディ首相が、グジャラート州への投資誘致のために北京に乗り込んだのは、まだ同州首相だった2011年のこと。このとき中国共産党の要人や役人、企業、さらにはインド人留学生との会合をアレンジしたのが、当時、駐中国インド大使だったスブラマニヤム・ジャイシャンカル外相だ。

この北京での出会いが、現在まで続くモディとジャイシャンカルの緊密な関係の出発点となった。それは今、インドだけでなく、世界の地政学にも影響を与えようとしている。

ジャイシャンカルは中国での任期を終えた後、13年には駐米大使としてワシントンに赴任。この頃、モディは02年のグジャラート暴動への関与を疑われて、アメリカからビザの発給を停止されていた。だが12年にインド最高裁で事件への責任はなしと判断され、14年には総選挙に勝利して首相に就任すると、アメリカのビザ停止も解除された。

同年9月、ついに訪米したモディは、ニューヨークのマジソンスクエアガーデンで、満員のインド系聴衆に向けて演説を行った。そんな晴れ舞台のお膳立てをしたのも、駐米大使のジャイシャンカルだった。

その4カ月後、モディは、外務省から数日後に退官する予定だったジャイシャンカルを外務次官に抜擢。19年には外相に任命した。

こうして外務官僚から政治家に転じたジャイシャンカルは、従来とは大きく異なるスタイルの外交を展開し始めた。国際社会におけるインドの「正しい位置付け」を明確にするべく、自信に満ち、自己主張が強く、誇り高きヒンドゥー至上主義的な姿勢を前面に打ち出すようになったのだ。

インド政府の方針と一致しないとみると、ジャイシャンカルは欧米の外交官やシンクタンク、ジャーナリストに公然と食ってかかる人物として知られるようになった。また、非同盟ならぬ多同盟主義と戦略的自立の原則に基づき、インドは自らの国益のために、自らの判断で行動する姿勢を明確にした。

このようにモディの考え方にぴったり寄り添う外交を展開してきたジャイシャンカルだが、実のところ2人は、正反対の世界の出身だ。

出身階級も話す言葉もモディとは違う
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