<今も繰り返される科学者への市民の不信感と、科学への政治的な歪曲の歴史を、アカデミー作品賞映画『オッペンハイマー』の基になった伝記の著者がつづる>

ロバート・オッペンハイマーは1954年春、ニュージャージー州のプリンストン高等研究所でアルバート・アインシュタインと出くわした。オッペンハイマーは47年から所長を務めており、アインシュタインは33年にドイツを逃れて以来、研究所の教授職にあった。

「神はサイコロを振らない」と言ったアインシュタインだが、2人は良き友人だった。

オッペンハイマーはアインシュタインに、仕事を数週間休むことになると話した。安全保障に関する嫌疑をかけられ、おそらく国への忠誠心さえ疑われており、ワシントンで開かれる非公開の聴聞会で弁明を余儀なくされていた。

アインシュタインは「魔女狩りの餌食になる義務はない。祖国に尽くしてきたではないか。それが(アメリカの)仕打ちだというなら背を向けるべきだ」と主張した。オッペンハイマーは、背を向けることはできないと反論した。

「彼はアメリカを愛していた」と、オッペンハイマーの秘書で2人の会話を聞いていたバーナ・ホブソンは語っている。「その愛は、彼の科学への愛と同じくらい深かった」

自分のオフィスに戻ったアインシュタインは、オッペンハイマーを見てうなずきながら助手に言った。「頭が固すぎる」──愚か者だ、と。

アインシュタインは正しかった。オッペンハイマーは愚かにも、つるし上げの裁判に自ら飛び込み、セキュリティークリアランス(機密情報にアクセスできる資格)を剝奪され、公の場で屈辱を受けた。嫌疑の根拠は貧弱だったが、原子力委員会のセキュリティー審査委員会の3人の理事は2対1で、オッペンハイマーは忠実な市民ではあるが安全保障上のリスクがあると判断した。

45年に「原子爆弾の父」とたたえられ、その9年後に「赤狩り」の大渦の最も有名な犠牲者になったのだ。

オッペンハイマーは考えが甘かったのかもしれない。だが、告発と闘ったことは正しかった。国を代表する科学者の1人としての影響力をもって、核軍拡競争に反対を表明したことも正しかった。

聴聞会までの数年間、彼は「超」水素爆弾を製造するという国の決定を批判していた。驚くことに、広島の原爆は「事実上、敗北していた敵に使われた」とまで言った。さらに、原爆は「侵略者の兵器であり、奇襲と恐怖は核分裂性核種と同じように原爆に内在している」と警告した。

米政府の国家安全保障体制に関する有力な見解に率直な反対意見を述べたことは、強力な政敵を生んだ。だからこそ忠誠心を問われたのだ。

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