Howard Schneider Jonathan Spicer

[22日 ロイター] - 米連邦準備理事会(FRB)議長を4人の大統領の下で18年以上務め、金融政策を主導したアラン・グリーンスパン氏が死去した。100歳だった。1987年8月から2006年1月までFRB議長を務め、退任時には史上最高のFRB議長と称賛されたが、退任からわずか2年余り後に深刻な金融危機が発生したことで批判も浴びた。

自宅でパーキンソン病の合併症のため死去した。グリーンスパン氏の妻でNBCの記者のアンドレア・ミッチェル氏が声明で明らかにした。声明では「数十年にわたり(民主・共和)両党の大統領の下で米国経済の形成に貢献した巨人だった。同時に自らの過ちを認める誠実さを常に持ち合わせていた」と述べた。

FRBは声明で、深い悲しみを表明し、「グリーンスパン氏は金融政策の決定に厳格な分析的規律をもたらし、FRBの最も重要な資産の一つである信頼性の確立に貢献した」と表明した。

在任中は01年まで10年間続いた米史上2番目に長い経済成長を下支え、経済の「マエストロ」とも呼ばれた。特に、90年代半ばに生産性上昇がインフレ抑制につながるという先見性ある判断を示した。この判断は今も政策当局者に言及されるほどで、パウエル前FRB議長もは専門的な経済モデルよりも判断力が時として勝ることを示す例としている。

一方で、資産価格バブルをあおり07─09年に発生した金融危機の素地をつくったとして退任後に非難され、金融政策に関する手腕も疑問視された。

FRBの元高官スティーブン・オリナー氏は「金融危機直前の神格化は値しないものだったし、退任後の徹底的な批判も完全には正当化されないと考えている」と語った。

グリーンスパン氏は就任から2カ月後に発生したブラックマンデーで株式市場が暴落した際、金融市場に流動性を供給する強力な対策を導入し、景気後退を阻止したことで称賛を浴びた。また、90─91年の景気後退、97─98年のアジアとロシアの金融危機、00年のドットコム株バブル崩壊、さらに01年9月の同時多発攻撃後の混乱に対応し米経済を主導した。

<バブル崩壊>

地区連銀が主催する2005年のジャクソンホール会議では、著名な経済学者2人がグリーンスパン氏を、史上最高の中央銀行総裁になるかもしれないと称えた。

しかし在任末期の4年間に膨らんだ住宅価格バブルが崩壊すると、同氏への評価も低下。金融市場の規制緩和を強く主張したグリーンスパン氏だったが、こうした姿勢が住宅市場への銀行の破滅的な融資を許したと批判を受けた。

グリーンスパン氏はその後の議会証言で、銀行家の自己利益が組織存続を危うくする行動を思いとどまらせると想定していたが、判断が間違っていたことに「ショックを受けた」と認めた。

歴代議長で在任期間がウィリアム・マチェスニー・マーティン氏に次ぐ2番目に長かったグリーンスパン氏は、1987年にレーガン大統領によって最初に指名され、その後ブッシュ氏(父)、クリントン氏、ブッシュ氏(子)の各大統領によって再任された。80歳でFRBを退任、コンサルタント会社「グリーンスパン・アソシエーツ」を設立しコンサルタント兼アドバイザーとして活動した。

1926年3月6日、ニューヨーク市生まれ。音楽好きで、ジュリアード音楽院で2年間クラリネットを学んだ。スウィングバンドのサックス奏者として短期間ツアー参加した経験もあり、その後ニューヨーク大学で経済学を学んだ。

Reuters Copyright (C) 2026 トムソンロイター・ジャパン(株) 記事の無断転用を禁じます。