北朝鮮は約80年にわたり、建国の父・金日成(キム・イルソン)の一族の男子が権力を世襲してきた。絶対的権力が父から息子へと受け継がれる男性優位の秩序は、決して変わることがないかに見えた。
ところが近年、金正恩(キム・ジョンウン)総書記の娘ジュエが、父親と共に公の場に姿を見せることが増えた。それは、この伝統的な秩序に大きな変化が起こる可能性を示唆している。
今年2月末には、党や軍の高官を前にジュエがライフル銃を試し撃ちする姿が、国営メディアによって一斉に報じられた。3月には、父親と共に軍事訓練中の新型戦車に乗っている姿も報じられた。
韓国国家情報院(NIS)はジュエのことを、正恩の後継者の最有力候補とみる。果たして、北朝鮮の現体制には本当にその意図があるのか。また、家父長的な考えが根強い保守的な社会で、この前例のない措置をどのように正当化していくつもりなのか。
こうした疑問に答えるかのように、金一族の神話づくりに拍車がかかっている。冒頭に挙げたメディアへの露出は、こうしたイメージ戦略の1つといえる。今回はさらに、金一族の象徴性と母性的なリーダーシップを融合させたプロパガンダが展開されている。
ジュエは現在13歳前後とみられるが、10歳頃までは公の場に出てくることはなかった。ところが2022年11月、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験に立ち会う姿が初めて公開され、その存在が北朝鮮の核抑止力と象徴的に結び付けられた。
近影では、ジュエが父親に寄り添うだけでなく、より主体的に軍事に関わっていることを示唆する姿が拡散されている。現体制はジュエを国防体制に組み込み、「大切に守られた後継者」から「若手指揮官」へとイメージチェンジを図ろうとしている。
これは、10年頃に正恩の存在が広く知られるようになった時とは少し異なる。
正恩は09年には父・金正日(キム・ジョンイル)の後継者に内定していたとされるが、11年に正日が急死したため準備期間が大幅に短縮され、新たな権力者であることを強引に知らしめる必要が生じた。
そこで父の死後、正恩は軍の最高司令官に就任すると、軍幹部を大量に粛清した。よく知られるのは、12年の李英鎬(リ・ヨンホ)軍総参謀長の解任だろう。この時も国営メディアは、正恩が軍事演習を指揮し、戦略兵器の発射実験を見守る姿を盛んに報じた。
長男を権利継承から除外
ジュエが15歳にもならないうちから後継者のように扱われ始めた背景には、おそらく正恩の健康不安がある。しかし女性であるジュエが男性優位の軍で受け入れられ、トップに立つためには、より長い準備期間が必要だという配慮もあったのかもしれない。
国営メディアが使う敬称も、ジュエの権威を強調してきた。22年のICBM発射実験で初めて父親に寄り添う姿が報じられた時は、「愛するお子様」と呼ばれたが、すぐにそれは「尊敬するお子様」へと格上げされた。
24年初めには、歴史的に最高指導者かその後継者にのみ用いられてきた「嚮導(きょうどう)」という呼称が使われた。
NISによると、正恩には3人の子供がおり、この中には息子もいる。このため、ジュエをメディアに盛んに出しているのは、本当の後継者(長男)を外国の諜報活動から守るためなのではないかという見方もある。
しかしNISは、そのような方法で息子を守ることはできない(特に外国にいるとき)と指摘している。それに、北朝鮮の現体制は正恩に息子がいることを公式に認めていないし、国営メディアがその姿を報じたこともない。
たとえジュエに兄がいたとしても、長男以外の子供が親の後継者になることは、東アジアの歴史においても、これまでの金一族の歩みの上でも例外的ではない。王朝時代の朝鮮では、年齢ではなく政治的な手腕や賢さによって後継者が選ばれることがよくあった。そもそも正恩も正日の三男だった。
正恩には現在、朝鮮労働党の総務部長を務める妹の金与正(キム・ヨジョン)もいる。それならまだ幼い娘よりも、経験豊富で政治的地位も確立されている妹のほうが後継者にふさわしいのではないか。
ここで大きな影響を及ぼすのは、「白頭血統」と呼ばれる金一族を神格化するための北朝鮮の伝説だ。
それによると、中国と北朝鮮の国境に位置する白頭山は朝鮮民族の始祖の生誕の地とされると同時に、日成が1930〜40年代に身を投じた抗日パルチザン闘争の拠点であり、さらに息子の正日が誕生した地でもある。こうした伝説が、金一族による権力の世襲を正当化してきた。
与正も金一族のメンバーだが、兄から妹へ権力が水平に移譲されれば、最高権力者の地位の世襲という伝統が崩れてしまう。
ただ、与正が北朝鮮の政治で重要な役割を担っていることは間違いない。対外的に強硬なメッセージを発信し、政治の場で攻撃的と受け止められがちな姿勢を維持することを「普通の光景」にした。
このことはジュエが、叔母とは違って慈愛に満ち、より清廉で安定した指導者というイメージを印象付けることを可能にしてきた。
ジュエの後継指名は、より広範なリスク管理戦略でもある。個人崇拝型の独裁体制では、後継者を指名すると複数の支持ネットワークが生まれて競合し、早期に権力が分散することも少なくない。
しかし、かなり若い後継者は現在の指導者にほぼ完全に依存するため、エリート層の派閥争いは抑制されやすい。さらに、党内に広範な人脈を築いている叔母の与正と違って、独自の派閥基盤を持たずに後継者となるジュエは、父親の絶対権力を直接脅かすことはない。
記事の続きはメディアプラットフォーム「note」のニューズウィーク日本版公式アカウントで公開しています。
【note限定公開記事】北朝鮮に「女性独裁者」が誕生する日は近い
ニューズウィーク日本版「note」公式アカウント開設のお知らせ
公式サイトで日々公開している無料記事とは異なり、noteでは定期購読会員向けにより選び抜いた国際記事を安定して、継続的に届けていく仕組みを整えています。翻訳記事についても、速報性よりも「読んで深く理解できること」に重きを置いたラインナップを選定。一人でも多くの方に、時間をかけて読む価値のある国際情報を、信頼できる形でお届けしたいと考えています。
剛腕首相ネタニヤフが図ったアラブとイランの弱体化で、中東に訪れる新時代