原爆によって世界が崩壊する可能性を知るということは、オッペンハイマーにとって、自分の慣れ親しんだ世界が突然「不気味なもの」「疎遠なもの」として認知されることを意味する。従ってオッペンハイマーはそれを避けるために、被爆者のイメージを抑圧せざるを得ないのだ。
そして、ある意味ではこれは、アメリカの縮図ではないだろうか。世界を何度破壊しても足りないぐらいの核ミサイルを持ち、世界で唯一人間の頭上に原爆を投下した国が、今になってもなお原爆の被害と向き合えないのは、被害と直接向き合ってしまうと、この世界が崩壊するイメージがトラウマのように広がっていき、社会が根本から崩れ落ちる恐怖に苛まれる。クリストファー・ノーランはそれを寓話的に描いていると解釈することもできるのではないか。
エピメテウスとしてのオッペンハイマー
もう一つ重要な点は、この映画ではオッペンハイマーを「殉教者」としてヒロイックに描くこともしていないということだ。映画では、オッペンハイマーはのちに政敵の陰謀によって「赤狩り」の対象となり、社会的な地位を失墜させられてしまう。さらにその政敵は、オッペンハイマーはそのような理不尽な迫害を甘んじて引き受けることによって、原爆の罪滅ぼしを行おうとしている、というオッペンハイマーの隠れた意図を暴露している。そしてその作戦は成功しないだろうとも言う。映画では晩年のオッペンハイマーが表彰を受けるシーンで終わる。彼は「原爆の父」という「栄光」から死ぬまで逃れられないのだ。
ここで描かれているオッペンハイマーの一面は、火を人間に与え、その結果磔にされ、ハゲタカに内臓を永遠に啄まれることになった「殉教者」プロメテウスのイメージとは異なる。むしろプロメテウスの忠告を無視してパンドラと結婚した結果、世界に災厄が振りまかれるきっかけをつくったプロメテウスの兄弟、エピメテウスになぞらえる方がしっくりくる。