従って、この映画でのゴジラとの戦いから受ける印象は、作中でしつこいぐらい強調されている戦後日本の新たな希望の勝利ではない。むしろ戦前の日本に対する未練を引きずった男たちの敗者復活戦なのだ。対ゴジラ作戦に関わるのは、見事に男性しかいない。数少ない女性登場人物であるヒロインは、フェミニズム批評でいう典型的な「冷蔵庫の女」である。
「冷蔵庫の女」とはアメリカのあるヒーロー物のコミックスで、主人公の恋人が殺され遺体を冷蔵庫に詰められたことに由来し、男性キャラの成長のためだけに唐突に殺される女性キャラクターのことをいう。この映画のヒロインもまた、消沈している主人公にゴジラを倒す動機をあたえるために死ぬ(ラストシーンで生存が発覚するのだが)。このように、この作品は常に男性視点で進んでいくのだ。
主人公を含む男たちがゴジラと戦うのは、日本や家族を守りたいからだけではないだろう。日本は連合軍に徹底的に打ちのめされ、国土を焦土にされた。これは男性的な価値観にとっては極めて屈辱的であり、「日本男児」は去勢されたにも等しい。しかしここでゴジラと戦い勝利する体験が得られれば、男たちは再び「立ち上がる」ことができるのだ。この映画の冒頭が、ある南洋の島から始まるにも関わらず、かの戦争は日本の侵略戦争だったという観点がまるでなく、敗戦という悲劇しか描いていないことも影響している。
『ゴジラ-1.0』は日本人のナショナリズムを高揚させる。そのナショナリズムは、確かに表向きは、先述の通り個人の礼賛という「政治的正しさ」に準じたものとなっている。しかしこの戦いが男たちの敗者復活戦であることは、古いナショナリズムもまた喚起する。
映画のクライマックスで、主人公たちの危機に、おびただしい数の民間船が救援に表れるというシーンがある。このシーンは明らかにクリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』のオマージュであり、観客の気分を盛り上げる。だが、ダンケルクの戦いで連合軍兵士を救援するために多数の民間船が向かったのは、(いかにそれがナチス・ドイツに対する抵抗であったとしても)命の危険を冒して「国家」のための戦争に貢献するためだったことは忘れてはならない。
国家と民間、生命の軽視と尊重、無責任と覚悟、これらの二項対立は、簡単に切り分けることができない。筆者は、『ゴジラ-1.0』が高揚させる「政治的に正しい」ナショナリズムの背後に、「ニッポンを、取り戻す。」という、あのスローガンが見え隠れしてならないのだ。