工学的に洗練された車や家電製品が美しいのと同様に、洗練された殺人システムには、ある目的に対して無駄なく完成されたものに対するある種の「美しさ」(が備わっている。「美しさ」というキーワードは、こうした大量殺戮のシステムには欠かせない要素だ。成田氏が福祉削減のため高齢者の抹殺を口にするとき、美化された文化としての「切腹」という言葉を用いているのもその一種だろう。彼が主観的には老人に自害を勧めていないというのは恐らく真実だろう。なぜならそれは自分の責任で老人を殺すことになる。成田氏はその代わりに切腹という「文化」を再評価する。切腹の美学を内面化した老人が増えれば、自分の手を汚さずとも老人は「自動でいなくなる」。成田悠輔が述べているのは、大量虐殺のために、切腹という美的システムを利用せよということなのだ。

メディアは成田氏の起用を説明すべき

そして、このような美学の力を借りた洗練された虐殺システムを宣伝するのが、メディアの力だ。アドルノは、映画やラジオのような大衆メディアを、人々を資本に対して従順にさせる道具たる「文化産業」と呼んで批判した。現代の視点からはアドルノの批判はやや厳しすぎるとみなされているが、福祉削減のためにあっけらかんと高齢者の大量虐殺について語る成田悠輔のような人物を面白いからといって起用し、子供への悪影響も厭わない無責任なメディア関係者が跋扈する現状では、アドルノの「文化産業」批判にも再評価の余地があるだろう。

日本のメディア関係者は、「小中高生20人vsひろゆき&成田」の動画を見て、それでも成田氏をまだ起用するのかをよく考えるべきだ。もし起用するというのなら、この動画のやりとりについての見解を公開で表明してからにしてほしい。大量虐殺の扇動者を無責任に持ち上げてよいわけはないのだ。